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| しばらく休載します。 |
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今まで、コラムの更新を怠っていたことをお詫びします。昨年のリーマンショックから端を発した金融危機により、日本国内では派遣切りが相次ぎ、雇用不安が広がりました。現在では完全失業率が5.5%にまで拡大しており、そのなかには、正社員の失職者も数多く含まれているといわれています。そのようななか、私は自らの勉強不足を痛感しました。現在、私は財政学や租税論の教科書を何冊か読んで、望ましい再分配の形を模索しています。一から勉強し直した上で、またコラムを書きたいと思います。それまでは、まことに勝手でありますが、コラムを休載させていただきます。
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| (2009.10.2[Fri]) |
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| 「格差社会に断固、徹底抗戦―俺はぶっ殺されるまで戦うぞ!!」 ■序章−・規制緩和では、格差や貧困は解消されない。 |
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●説得力がない規制改革論者の言説
2005年から格差社会が現代日本における大きな社会問題として、あらゆるメディアで盛んに議論され始めた。格差社会論が記載された「格差本」と呼ばれる書籍が数多く発行されたのをはじめ、新聞も格差社会を連載し、雑誌もまた格差社会を特集で取り上げた。テレビ番組もその流れに続いた。テレビ番組で顕著な例は、NHKが06年7月23日に放送した番組NHKスペシャル「ワーキングプア」であろう。最近では、ネットカフェ難民をはじめとする貧困化する若者たちが大問題となり、議論は格差社会論から貧困社会論へと移行されている。メディアもその潮流に従って、ネットカフェ難民を中心に現代日本社会における貧困に注目しつつある。 こうした流れのなかで現代日本における格差や貧困に関する議論が展開された。それらを議論する知識人たちのほとんどは、今日の日本社会で大問題となっている格差や貧困の原因は、小泉政権の構造改革もしくは、それ以前のバブル崩壊後の90年代に行われた規制緩和だと述べている。実際、労働者派遣法の規制緩和の結果、労働者派遣は増大し、それとともに人材派遣業界の売上高も拡大している。このようなところをみると、格差や貧困の原因は規制緩和にあるとする見方が適切である。メディアもまた、そのような見解で現代日本の格差や貧困を報じたため、一般の多くの人々の間では、現在の格差や貧困を生み出したのは規制緩和であるという認識が定着している。 しかし、ある一部の新自由主義的な学者や、財界の利益を追求する企業家たちは、格差や貧困を是正するためには、小泉政権の構造改革よりもさらに規制緩和を推進する必要があると主張する。彼らのこのような主張は、格差や貧困の主因は、規制緩和であるとする見方からすれば、非常に逆説的であり、異端とさえいえる。規制緩和の継続を訴える論者のほとんどは、どのように規制改革を行って、格差や貧困を克服するかについて具体的な手法を明示できないでいる。
規制緩和を推し進めることで格差や貧困を解消するべきだと述べる論者で代表的なのは、国際基督教大学教授で経済財政諮問会議の民間議員である八代尚宏氏であろう。八代氏は、『週刊エコノミスト 2007年1月30日号』(毎日新聞社 2007)のインタビューでは、労働市場の規制緩和の必要性について、このように述べている。
「人口減少社会のなかで、貴重な労働者が適切に移動し、多様な働き方をするためには、現在の労働市場の規制が障害になっている」
従来の年功序列や終身雇用などのような日本的経営から多様な働き方への移行を目指した、日経連の「新時代の『日本的経営』」が95年に作成されて以降、労働者派遣法の改正を中心に労働市場で規制緩和が行われた。八代氏がいうような、多様な働き方の実現を目指して労働市場の規制緩和が行われた結果、非正社員数が急激に増大し、07年には、過去最高の1726万人にまで膨れあがった。平均年収200万以下の給与所得者―「ワーキングプア」は、国税庁の「平成18年分民間給与実態統計調査」によれば、1023万人も存在しているという。多様な働き方を志向して労働市場の規制緩和を推進した結果、生活保護世帯の年収にさえ満たない低所得者を増加させたのである。多様な働き方を口実に労働市場の規制を緩和した結果、低所得者が増え、所得格差が拡大したのである。
また、95年以降、労働市場の規制緩和が行われた結果、八代氏のような規制改革論者たちがいう多様な働き方が実現できたかどうか筆者は甚だ疑問である。なぜなら、厚生労働省の「就業形態の多様化に関する総合実態調査」では、「現在の就業形態を選択した理由」という質問について、非正社員の多くが回答した理由は、「正社員として働ける会社がなかった」からである。非正社員の多くは、仕方なく非正社員として働かなければならなかったのである。よく新自由主義者たちや財界人たちは、非正社員数の増加は、働き方の多様化の結果だと述べる。しかし、さきほど筆者が挙げた厚生労働省の「就業形態の多様化に関する総合実態調査」によれば、非正社員のほとんどが仕方なく非正社員という働き方を選んでいるのである。
このようなところをみれば、労働市場の規制緩和で多様な働き方は達成できていないといえる。今後、八代氏のいうように労働市場の規制緩和をさらに推し進めても実現できないだろう。 経営者たちもまた、規制改革によって格差や貧困が生じているのにもかかわらず、新自由主義的な学者と同じように規制緩和をさらに推し進めるべきだと強く主張する。たとえば、経団連の会長でキャノンの会長でもある御手洗富士夫氏は、自身のお膝元であるキャノンで偽装請負が発覚したのにもかかわらず、派遣先企業が請負労働者に指揮命令できるように職業安定法を改正するべきだと強く要求する。厚顔無恥も甚だしい、御手洗氏は自らの愚劣さを恥じるべきだろう。
また、経団連の参与高橋秀夫氏は、『週刊エコノミスト 2008年5月20日号』(毎日新聞社 2008)のインタビューで、規制緩和によって働く機会が増えたと述べるばかりでなく、労働者派遣法において、本来、派遣労働者の地位を守るために定められている派遣労働者の派遣制限(派遣労働者を、最長3年を超えて雇用した場合、直接雇用の義務が生じる)を撤廃するべきだと主張している。 私が以上で挙げた規制改革論者の言説は断片的であるが、こうしてみると彼らの言説は適切ではないばかりか、説得力が全くないといえる。それどころか、学者の場合、自身が抱く新自由主義的なイデオロギーに突き動かされて規制緩和の必要性を論じていたり、企業家であれば、財界に利益を誘導するために規制の撤廃を強く主張したりしており、規制改革論者たちのいう規制緩和をさらに推し進めるべきだという言説は、エゴイスティックなものとさえいえる。
●規制緩和で拡大された格差と貧困、そして不安
規制改革論者たちのほとんどは、規制緩和によって格差や貧困が生じたという見方を一切否定し、どのように規制改革を行って、格差や貧困を克服するかについて適切かつ具体的な手法を明確に示していない。にもかかわらず、格差や貧困を解消するためには、小泉政権の構造改革よりさらに規制緩和を推し進める必要がある、とひたすら述べる。しかし、労働市場では、99年の労働者派遣法の改正以降、急激に非正社員数が増加しており、国税庁の「平成18年分民間給与実態統計調査」において、平均年収200万以下の給与所得者が1023万人までに達しているところをみれば、規制緩和によって格差や貧困が拡大したのは明らかである。規制緩和によって格差や貧困が拡大したのは、労働市場ばかりでなく、タクシーやバスのドライバーにもみることができる。タクシーやバスにおいてでは、規制緩和が行われた後、ドライバーたちの格差や貧困の拡大だけでなく、交通事故の件数も増加している。 タクシー業界では規制緩和の結果、新規参入する業者数の増大により、競争が激化し、運転手は低賃金や長時間労働を強いられるようになった。タクシー業界は低運賃の上、給与は出来高払いの歩合給であり、たとえば、月30万円の売上げでは手取り10万円足らずである。厚労省の調査によれば、ドライバーの年収は、04年で全産業平均の6割に満たない308万円で、最低賃金を下回るなど改善が必要な事業所は367ヶ所もあったという。規制緩和でタクシーの台数は21万台まで増加している一方、利用客数は企業の交通費削減で減っており、04年度の1台あたりの1日の平均売上は99年度より約3500円少ない2万8985円に減少したといわれている。貸し切りバス事業もまた、需給調整規制が00年に撤廃された結果、事業者数は99年度の2336社から06年度には、3923社へと約1,7倍に増加し、貸し切りバス事業全体の営業収益は、99年度の5434億円から05年度には3899億円へと大幅に縮小している。 関西大学教授の安倍誠治氏によれば、タクシーが起こした重大事故の件数は、規制緩和が行われていた01年頃から増加し始めたという。(注1)重大事故というのは、自動車の転覆、転落、火災事故や踏み切りでの自動車と鉄道車両との衝突ないし接触事故、死者または重傷者が発生した事故などとされている。
安倍氏によると、事故が増加しているか否かをより正確にみるためには、件数を比較するだけでなく、走行キロ当たりの事故件数の推移をみることが必要であるという。安部氏が、1億走行キロ当たりの重大事故等の件数の推移を示すために、国土交通省の「自動車運送事業用自動車事故統計年報」第49号と「平成17年度鉄道事故等の発生状況について」を基に作成した図をみると、タクシーやバスの事故件数は01年頃から増大している。タクシーの1億走行キロ当たりの重大事故等の件数は、01年度では3.8件だったのが、05年頃には4.9件にまで拡大している。またバスの1億走行キロ当たりの重大事故等の件数も01年において11.5件だったのが、05年頃になると、50.1件にまで急増している。こうした現象は、規制緩和が行われた後に現れており、タクシーやバスなどの公共交通機関では規制緩和の結果、ドライバーの低収入化ばかりか、安全性まで損なわれてしまったといえる。
規制改革の負の影響は、タクシーやバスといった公共交通機関だけでなく、公教育の領域においてもみられる。 規制改革論者たちが、公教育改革として掲げる代表的なものは、学校選択制や統一学力テスト、学校評価制度、バウチャー制度などであろう。決まって、規制改革論者たちは、公教育に市場原理を適用して学校間に競争が生じさせれば、公立学校全体の学力が向上するだけでなく、公立学校は、保護者と子どもが満足できる教育サービスを提供するように努力するだろうと述べる。 しかし、一方で規制改革論者たちが主張する、こうした公教育改革は、規制改革論者たちがいうような機能を果さないばかりか、低所得の家庭の子どもたちの地位を固定化してしまう危険性さえ孕んでいる。 東京都品川区では、ほかの自治体に先駆けて学校選択制を導入した。小学校では2000年、中学校では01年に学校選択制が開始された。学校選択制とは、地域内の学区を撤廃し、保護者と子どもが自由に学校を選ぶことができる制度である。その範囲は、区市町村レベル、または近隣の地域ブロックなど自治体によって異なっている。 品川区の学校選択制の導入の旗手を担ったのは、区教育長の若月秀夫氏である。教育ジャーナリストの小林哲夫氏のルポによれば、若月氏が学校選択制を導入した主な目的は、競争によってダメ教師たちの意識を更生させることだったという。(注2) 規制改革論者たちのほとんどは、あたかも、市場に参加する全てのプレーヤーたちが同じスタートラインからスタートして、競争しているかのように述べる。小林氏によれば、品川区が若月氏の主導の下、公立の小中学校に学校選択制を導入した結果、従来から地元の進学校に多くの入学者を輩出した学校や、冷暖房や温水プールなどの施設が充実した学校に入学希望者が数多く集まり、元々、「荒れている」という噂がある学校には、入学希望者が減少し続けているという。 このような学校選択制の恩恵を受けるのは、裕福で生活にゆとりのある家庭の子どもたちである。交通費を工面することが困難な低所得の家庭の子どもたちは、学校を選択する自由さえ獲得できない。必然的に低所得の家庭の子どもたちが地元の不人気校に集まってしまう。小林氏のルポで登場する、空港でパートの仕事をしているあるシングルマザーの女性は、経済的な余裕はないので、わざわざ交通費を払ってまで子どもを人気校に通わさなくもいいといっている。佐野眞一氏の「ルポ下層社会―改革に棄てられた家族を見よ」によれば、品川区と同じく学校選択制を導入している足立区でも、低所得者層が多く住む地域のなかから人気校に通える子どもはほとんどいないという。こうしてみると、学校選択制は、格差の固定化もしくは格差の再生産を助長しかねない危険性を持っているといえる。 能天気な規制改革論者たちや知識人の肩書きを持つ無知蒙昧な輩は、このような学校選択制によって生じた学校間格差は、学校側の工夫や努力しだいで改善が可能ではないかとのんきにほざく。学校選択制によって保護者と子どもが消費者となってしまった状態で、必ずしも学校側の工夫や努力が報われるとは限らない。小規模校で人気校ではない品川区の清水台小学校は、独自色を出すため、少人数教室や習熟度別教室などを導入して、算数に強い学校となった。事実、品川区で行われている学力定着度調査において、清水台小の算数の平均正答率は、人気校に匹敵するほどの好成績である。にもかかわらず、入学希望者は増加するどころか年々、他の人気校へ流れてしまっている。教育サービスの消費者である保護者と子どもは、従来からあった人気校のブランドや、冷暖房や温水プールなどの設備が完備しているかといった見方で学校を選んでいるということになる。そのようななかで、学校側の工夫や努力だけで学校間格差を改善するのは、非常に困難である。 若月氏は当初、ダメ教師(若月氏にダメ教師と見なされている教師)の更正を目的に学校選択制を導入した。しかし、一方で学校選択制の導入は、ダメ教師の能力向上には、つながっていないという指摘がある。小林氏のルポでインタビューに答えたプライムスクールの代表古原正人氏によれば、指導力不足の教師の存在は、保護者の間ですぐ広まり、保護者たちはそのような教師に子どもを担当された場合、抗議するよりも弟や妹を違う学校に進ませるほうを選ぶため、教師の資質向上にはつながらないと述べている。 品川区の学校選択制については、若月氏がその制度を導入したことによって学力が向上したという意見もある。しかし、学校選択制の恩恵を受けることができるのは、裕福で生活にゆとりのある家庭の子どもたちであり、交通費を工面することが困難な低所得の家庭の子どもたちは、学校を選択する自由さえ獲得できず、不人気で荒れているとしても彼らは地元の学校に通うしかない。こうした見方でみると、学校選択制は、格差の固定化もしくは格差の再生産を孕んだ危険性を充分に有しているといえる。 市場原理が適用された公教育のなかで、保護者と子どもたちが学校選びの参考となる統一学力テストもまた、学校間格差ばかりでなく、低所得の家庭の子どもたちの地位の固定化を助長しかねない。イギリス在住のジャーナリスト阿部菜穂子氏によれば、イギリスでは88年度から統一学力テストが開始され、その結果が公表されると、統一学力テストの成績優秀校の周辺に裕福な中産階級家庭が次々と引っ越してきて学校の定員枠を独占し、成績の悪い学校は低所得者層や移民・難民家庭などが集まる地域に取り残されてしまったという。(注3) イギリスでは統一学力テストの成果が芳しくなかったらしく、阿部氏によると、イギリス連合王国内のウェールズでは、統一学力テストの結果は子どもたちの学力を正しく反映していないという見解が下され、すでに統一学力テストは全廃されたという。 また、統一学力テストは、学校のモラルの低下や腐敗を促しかねない危険性も持っている。その代表例が足立区の教育委員会が、05年の1月に東京都が実施した学力テストの際、事前に区立小中学校の校長を集めて、問題用紙の一部を封筒に入れて配布した事件であろう。足立区では、ほかにも06年1月と07年1月に都が実施した学力テストや06年4月に区が行った学力テストでは、区立小1校で教員が間違いを指差して知らせる不正などが起こっている。 規制緩和の悪影響が著しく目立つのは、我々の生活に密接な労働市場であろう。労働市場の規制改革のきっかけとなったのは、規制緩和に批判的な知識人の多くがいうように、95年5月に日本経営者団体連盟(現日本経済団体連合会)が出した報告書「新時代の『日本的経営』」であると考えられる。事実、この報告書が出された以後、非正社員数が増加し始めたと同時に労働者派遣法の規制緩和が急速に行われる。
「新時代の『日本的経営』」では、3類型の雇用形態が示されている。まず1つは、期間の定めがない長期蓄積能力活用型、長期雇用を前提としない高度専門能力活用型、有期雇用契約で多様な就労形態に対応する雇用柔軟型である。長期蓄積能力型は正社員、高度専門能力活用型は企画や研究開発などの専門職、雇用柔軟型は今まで一般職が担っていた補助的業務をパートやアルバイト、契約社員などの非正社員に置き換えることを想定したものだといえる。 バブル崩壊後、債務を抱え、雇用過剰を解消したい企業にとって、「新時代の『日本的経営』」が渡り舟となり、95年以降、労働市場の規制緩和が積極的に行われるようになる。 「新時代の『日本的経営』」の作成に携わった元日経連理事労政部長の小柳勝二郎氏によれば、報告書の作成の目的は、従来の終身雇用とは異なる多様な働き方を示すことであり、身分の固定化を意図したものではないという。むしろ、労働者が3類型のなかで自由に雇用形態の変換を繰り返すことを意図したものだと小柳氏は述べている。(注4) しかし、多様な働き方の実現を口実に96年12月から労働者派遣法の改正が行われてしまうことになる。96年12月の労働者派遣法の改正では、派遣の対象業務が16業務から26業務に拡大される。99年7月の派遣法の改正で、派遣の対象業務は原則自由化となる。この改正が、その後の人材派遣業界の売上高の拡大、派遣社員数の増加に拍車を懸ける。
このときの改正で労働者派遣法はポジティブリスト方式からネガティブリスト方式に転換したからである。改正前のポジティブリスト方式では、派遣の対象業務は26業務に限定されていた。労働者派遣法の生みの親とされる信州大学の高梨晶氏によると、そもそも労働者派遣法は、専門的知識や経験を必要とする業務に限定する意図のもとで作成されたという。(注5)それが、ネガティブリスト方式に変わり、港湾運送業務や建設業務、警備業務、製造業の製造ライン業務、医療関係業務を除いて、派遣の対象業務は原則自由化となってしまったのだ。このときの改正がその後の人材派遣業界の売上高の拡大や、派遣社員数の増加を決定付けたといって良いだろう。さらに03年6月には、聖域の1つであった製造業への派遣も解禁される。それと同時に派遣の受け入れ期間は、原則1年から3年に延長され、紹介予定派遣についての事前面接も解禁される。
労働者派遣法の解禁とともに人材派遣業界の売上高と派遣労働者数は右肩上りに上昇した。厚労省によると、人材派遣業界の売上高は、96年では1000億円程度だったのが、04年には約4000億円にまで拡大し、人材派遣業界は、4兆円市場に膨張した。派遣労働者数(常用雇用だけでなく、登録者すべてを含む)は、98年では、100万人程度であったが、04年には、約250万人にまで増大した。 企業は、95年に「新時代の『日本的経営』」が出された以後、終身雇用の正社員を減らし、非正社員に置き換えることで人件費の圧縮に努めてきた。それと同時に労働者派遣法の規制緩和が行われた。その結果、非正社員数が急激に増大し、07年には、過去最高の1726万人にまで膨張した。生活保護世帯の年収以下の給与所得者は、国税庁の「平成18年分民間給与実態統計調査」では、1023万人も存在しているという。95年から、人件費削減を至上命題とした産業界の意向を受けて労働市場の規制緩和を行った結果、格差や貧困が拡大されたといって良いだろう。
厚労省の「賃金構造基本調査」で正社員とフリーターの年収を比較した場合、正社員とフリーターの賃金格差には、大きな差があることに気付かされる。三菱UFJリサーチ&コンサルティングの研究員である小林真一郎氏が、「賃金構造基本調査」を基に25〜34歳で比較したところによると、正社員の平均年収が410万円であるのに対し、フリーターの平均年収は133万円であるという。(*1)その格差は3倍以上である。(いずれも04年実績)さらに小林氏によれば、18〜60歳まで働いた場合の生涯賃金では、正社員の2億2000万円に対し、フリーターは5700万円程度であるという。その格差は4倍程度となる。バブル崩壊後、フリーター数は右肩上がりで上昇している。(注6)企業がバブル崩壊後、終身雇用の正社員を減らし、非正社員に置き換えることで人件費の圧縮に努めてきた結果、不安定な収入で将来に希望を見出せない人々が数多く生まれたといえる。
以上で私が(断片的であるが)述べた労働市場の規制緩和は、決して非正社員層だけに悪影響を及ぼすわけではない。実は正社員も90年代から行われた労働市場の規制緩和によって、深刻な負担を被っているのである。総務省の「労働力調査」によると、週60時間以上働く人は、95年の559万人から05年には、617万に増加し、それと同時に正社員数は、97年の3812万人から05年には3332万人に削減されている。一方で、週35時間しか働かない人は、95年の896万人から05年には、1266万人に増加し、それとともに非正社員数も、95年の1001万人から05年には、1519万人に増加している。このようなデーターから考えられるのは、バブル崩壊後、企業のリストラで正社員が削減され、労働市場の規制緩和によって正社員から非正社員への入れ替えが進んだ結果、正社員の労働時間が長時間化しているということだろう。
JILP(独立行政法人労働政策研究機構研究・研修機構)が行った04年「労働時間の実態と意識に関するアンケート調査」はそれを裏付けている。それによると、長時間労働になる理由については、61%を超える人が「そもそも所定内では仕事が処理できないから」と回答しており、人員削減による人手が足りないことを理由に掲げる人は34%近くにのぼるという。
社会経済生産性本部メンタル・ヘルス研究所が06年に、企業の人事労務担当者に実施した調査によれば、全体の6割の企業が従業員の「心の病」が増加傾向であると回答した。この調査でいわれる「心の病」とは、休務中の診断書にうつ病や神経症、心身症などの精神疾患が記載されたケースであるという。特に30代が著しく急増している。社会経済生産性本部メンタル・ヘルス研究所所長の今井保次氏によれば、「心の病はどの年齢層で最も多いか」という問いに対して、「30代」と回答した企業は61.0%で、他の年齢層より圧倒的に多かったという。(注7) 最大の原因に挙げられたのは、多い順番から職場の人間関係、仕事の問題、本人の問題、職場環境、社会環境であったという。ほかに30代で心の病が増加した原因として考えられるのは、長時間労働と年収の減少であろう。さきほど挙げた総務省の「労働力調査」のなかで週60時間以上働く人(男性労働者)が、最も多い年齢層は30代である。また、小林真一郎氏によれば、全ての年齢層で年収は減少しているが、30代では20代と比べて減り方が大きいという。心の病を患う30代の増加には、様々な原因があると思われるが、バブル崩壊後の正社員の削減や、労働市場の規制緩和で促進された、正社員から非正社員の入れ替えが進んだこともそれに大きく関わっているだろう。
規制改革論者たちは、規制を撤廃して市場間の競争を活発にすれば、経済が発展すると述べる。しかし、私が以上で挙げた事柄に関していえば、規制緩和は、我々、一般の庶民の生活の安全を破壊する威力を持っているといえる。その破壊力は、我々の能力や努力が及ばないほど強力である。
●規制緩和をすれば経済は成長するという発想から脱け出す時期
規制緩和には、我々、一般の庶民の生活の安全が脅かす危険性が充分にあるのにもかかわらず、規制改革論者たちや財界人たちは、その危険性を緩和する対処策を何ら用意せず、しきりにさらに規制緩和を推進するべきだと主張する。最近、財界人たちは、労働者派遣法のさらなる改正のほかに、移民労働者の解禁まで要求している。彼らはそれによって発生する問題を何も考慮しないまま、ただ要求しているのである。
低賃金の移民労働者の受け入れを解禁すれば、国内の日本人労働者との賃金のコスト競争が起こり、日本人労働者の賃金は切り下げられるかもしれない。そうなれば、日本国内で排外的な気運が生じ、問題は根深いものになる可能性だってある。財界人たちは、そうしたリスクを考えた上で要求しているのだろうか。移民労働者の側も将来、低賃金で重労働という待遇の悪さに不満を持ち、それがやがて大きな社会問題に発展することだって考えられる。たとえ、現在、移民労働者たちが低賃金で重労働という待遇に耐え、それに甘んじているとしても、彼らの子どもたちは、父親たちの代と同じ待遇に満足するとは限らない。移民労働者の子どもたちは、不公平な待遇に不満を抱き、それがやがて大きな社会問題を引き起こす可能性もある。すでにその火種はくすぶっている。次にその一例を紹介する。
愛知淑得大学助教授の小島祥美氏(当時、大阪大学大学院)が05年12月に発表した、ブラジル人の集住地の岐阜県可児市における調査結果によると、可児市に住民登録しているブラジル人の子どもの不就学率は約1割という高い割合であったという。これは、なんと日本人の不就学率の100倍に相当する。逆に住民登録をせずに可児市に住んでいるブラジル人の子どもの不就学率は、8割だという。ここから推定すると、ブラジル人の子どもの2〜3割が不就学の可能性があるということになる。(注8)
不就学に陥る子どもの大半は、日本語での授業についていけず、ドロップアウトしてしまったという。なかには、生活の苦しさから中学生の年齢の子どもを工場で働かせる親も少なくないという。多くのブラジル人の家庭は、両親が共働きのため、不就学の子どもは一日中家でテレビを見るか、町中をブラブラしているしかないという。そうなると、将来は、非行に走るか、親と同じ 請負会社に入るかのどちらかになる可能性は高いだろう。
このような事態が何の対処も施されず放置されていれば、移民労働者の間で貧困は再生産されるのは間違いない。彼らの間で貧困の再生産が定着すれば、それが将来、大きな社会問題を生じさせるかもしれない。
嘆かわしいことに、悲しいほど愚鈍でエゴイスティックな財界人たちは、移民労働者の受け入れの解禁で生じる危険性を何も考慮せず、ひたすら移民労働者の受け入れを解禁せよと政府に要求するばかりである。
以上で私が述べたように、規制緩和には、我々、一般の庶民の生活の安全を脅かす危険性が非常に大きい。90年代から行われた労働市場の規制改革で、非正社員数が07年度で過去最高の1726万人にまで拡大したことや生活保護世帯の年収以下のワーキングプアが、1023万人も存在しているところをみると明らかであろう。規制緩和によって、我々、一般の庶民の生活の安全が危険にさらされるのであれば、もはや、規制緩和を続けるべきではないだろう。
私が、このようなことをいえば、おそらく、規制改革論者たちは、90年代から規制改革が行われなければ、今日の戦後最長の経済成長は起こらなかったと反論するだろう。
しかし、米国のサブプライムローンの破綻で徐々に明らかにされているように、今まで、規制改革論者たちが吹聴してきた戦後最長の経済成長を牽引していたのは輸出である。山家悠紀夫氏が、『世界 3月号』(岩波書店 2006)で02年1〜3月期と05年7〜9月期の輸出の増加と国内需要の増加を比較し、その差を検証したところ、輸出は42%増加したのに対して、国内需要の増加は6.4%にすぎなかった。決して、規制緩和によって家計の所得が上昇して内需が拡大したわけではなかったのである。それを裏付けるかのように、サブプライムローンの破綻後、今まで最大の輸出先であった米国の景気後退を見越して、ほとんどの大手企業では業績見通しの下方修正を繰り返し行っている。
結局、規制改革論者や財界人たちが推進してきた規制緩和は、我々、一般の庶民に大した恩恵をもたらしていなかったということになる。経営者たちは、正社員を削減して、その穴を非正社員で埋めることで人件費の削減という恩恵に浴したかもしれないが、我々、一般の庶民は、雇用の不安や労働時間の長時間化といった労働上の負担に苛まれるようになってしまった。規制緩和によって、我々、一般の庶民の生活の安全がこれ以上に脅かされるのであれば、もはや、規制緩和を続けるべきではないといえる。そろそろ、規制緩和といった発想から脱け出す時期ではないのだろうか。
(*1)小林氏は、フリーターの賃金をパート・アルバイトの賃金で計算している。
(注1)『週刊 エコノミスト 6月26日号』(毎日新聞社 2007) 安倍誠治「規制緩和で低下した公共交通の安全性」 (注2)『中央公論 11月号』(中央公論新社 2006) ・小林哲夫「親子の本音が招く、人気校への雪崩現象」 (注3)『世界 11月号』(岩波書店 2006) ・阿部菜穂子「安倍政権は問題の多いイギリス「教育改革」に追随するのか」 (注4)『週刊 エコノミスト 1月30日号』(毎日新聞社 2007) (注5)『週刊 エコノミスト 1月30日号』(毎日新聞社 2007) (注6)『週刊 エコノミスト 3月28日号』(毎日新聞社 2006) ・小林真一郎「所得格差は現時点で3倍の「30歳前後世代」生涯賃金は4倍差がつく」 (注7)『週刊 エコノミスト 9月19日号』(毎日新聞社 2006) ・今井保次「30代サラリーマンを蝕む「心の病」」 (注8)『週刊 東洋経済』(東洋経済新報社 2006)
<参考資料> ・橘木俊詔『脱フリーター社会』(東洋経済新報社 2004) ・中野麻美『労働ダンピング』(岩波新書 2006) ・『週刊 エコノミスト 3月28日号』(毎日新聞社 2006) ・小林真一郎「所得格差は現時点で3倍の「30歳前後世代」生涯賃金は4倍差がつく」 ・『週刊 エコノミスト 9月19日号』(毎日新聞社 2006) ・『週刊 エコノミスト 1月30日号』(毎日新聞社 2007) ・『週刊 エコノミスト 6月26日号』(毎日新聞社 2007) ・『世界 3月号』(岩波書店 2006) ・山家悠紀夫「「実感なき景気回復」を読み解く」 ・『世界 11月号』(岩波書店 2006) ・阿部菜穂子「安倍政権は問題の多いイギリス「教育改革」に追随するのか」 ・『週刊 ダイヤモンド 7月11日号』(ダイヤモンド社 2007) ・『中央公論 11月号』(中央公論新社 2006) ・小林哲夫「親子の本音が招く、人気校への雪崩現象」 ・『週刊 東洋経済』(東洋経済新報社 2006) ・『文藝春秋4月号』(文藝春秋 2006) ・佐野眞一『ルポ下層社会―改革に棄てられた家族を見よ』
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| (2008.8.10[Sun]) |
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| 「格差社会に断固、徹底抗戦―俺はぶっ殺されるまで戦うぞ!!」 ■序章−・もう止そう、「若者はダメ」というダメな議論は−A短絡的でいい加減さが目立つ、パラサイトシングル論とニート論 |
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前回に引き続き、若年層で広がるフリーターや派遣社員などのような低収入労働者の問題を自立する気概がない若者の情けない意識が原因であるとする見方−「若者はダメ」論について批判を行う。 今回は、前回で予告したように、現在の若者バッシングの先駆けとさえいえる山田昌弘氏の『パラサイトシングルという生き方』(ちくま書房 1999)と、現在、「ダメな若者」の象徴のように語られるニートを広めた玄田有史氏や小杉礼子氏らが述べるニート論を少しばかり批判する。
●短絡的な山田昌弘氏のパラサイトシングル論 現在活発に議論されるニート論が出現する以前において、若者の「問題のある」ライフスタイルを示す象徴的な概念であったのは、「パラサイトシングル」論であろう。「パラサイトシングル」という言葉は、東京学芸大学教授の山田昌弘氏によって創られた概念で、後藤和智氏(注1)によれば、山田氏は当初、「パラサイトシングル」という概念を父親の収入で母親と消費文化を謳歌する娘として扱っていたという。しかし、山田氏は、著書である『パラサイトシングルという生き方』では、「パラサイトシングル」という概念を両親と同居する若年層全体にまで拡大適用している。 山田氏によれば、親と同居している若者たちは、住居や炊事、掃除、洗濯などのような生活に必要な負担を強いられることで生活水準を落としたくないため、自立しようとせず、住居や炊事、掃除、洗濯などといった生活に必要なコストを親に負担してもらい、自らは自分で稼いだお金で旅行や外食、買物などを楽しみ、消費生活を満喫しているという。 山田氏は、そのような若者たちが増加することで、少子化や晩婚化が促進されているというとともに、また、パラサイトシングルが親元から離れないことで生活必需品の需要が減少して、経済不況にさえ陥っていると述べる。挙句の果てに山田氏は、明確な根拠がないのにもかかわらず、若者が引き起こす凶悪犯罪は、パラサイトシングル化する若者たちの増大が原因ではないかとまでいってのける。 山田氏は、パラサイトシングルの増加を憂うあまりか、若者たちを親元から自立させる解決策として大胆な案を提案している。なんと、親と同居している若者の家庭に課税するべきだというのである。若者に親と同居するリスクを負わせ、自立心を養わせるべきだというのだ。とても学者とは思えないような暴論である。山田氏のこのパラサイトシングル対策には、合理性はもとより、冷静さや慎重さが欠けているのではないか。
以上のように山田氏は、「パラサイトシングル」という概念を同居する若者全体に適用しているのであるが、どういうわけか、世間では「パラサイトシングル」というと、フリーターのイメージで認識されがちである。
フリーターや正社員の区別なく現在親元に住んでいる若者全般に対して、年収別に親と同居する理由についてみると、山田氏の見解や世間の認識とは、異なった様相がみえてくる。橘木俊詔氏の著書『脱フリーター社会』(東洋経済新報社 2004)によれば、年収300万円未満の男女で親元から離れない理由として多数を占めたのは、「経済的にやっていけないから」や「お金がかかるから」である。特に「経済的にやっていけないから」という理由を選んだ年収300万円未満の者の割合は、男女とも60%を超えている。反対に「今の生活で特に不自由がないから」を選んだ割合は、年収が300万円以上の男女に多かったという。 親元から離れない理由として、「経済的にやっていけないから」を選んだ年収300万円未満の男女の割合が60%を超えているところをみると、若者たちが親と同居して生活するのには、経済的な要素が大きく関わっているといえる。山田氏の「パラサイトシングル」論のように、必ずしも親と同居する若者たちが、単に「生活水準を落としたくないから」や「一人暮らしよりも豊かな消費生活が満喫できる」などといったような浮ついた気持ちでいるわけではないだろう。 親と同居する若者たちが、なかなか親元から離れられないのは、経済的な問題が大きいと考えるべき。とすれば、若者の自立困難な問題は、若年労働者の労働環境や待遇、雇用情勢の悪化など社会の構造上の問題であるとみるべきで、山田氏の、若者の親に対する依存心が問題であるというような若者個々人の精神の問題であるとする見方は、必ずしも妥当ではないだろう。山田氏がいう「パラサイトシングル」の問題は、労働経済学上の問題であり、山田氏のように若者の甘えた精神の問題として短絡的に片付けるのではなく、労働経済学の観点から考察するべきである。 経済的な問題が若者たちの自立を困難にしているのであれば、彼らに必要なのは、やはり、先ほどにも私が述べたように若年労働者の労働環境や待遇、雇用情勢の悪化などに対する改善である。山田氏のように若者の自立困難な問題を、親に生活コストを依存する若者の甘えた精神として論じ、彼らを自立させるために彼らの家庭に課税せよと述べるのは、あまりにも乱暴過ぎるのではないか。理性が欠如しているとさえいえる。 山田氏の「パラサイトシングル」論は、親と同居する若者自身の精神の問題として片付けられており、親と同居する若者の増加を社会の構造上の問題として捉える視点が欠けている。そういう点で山田氏の「パラサイトシングル」論は、若者たちが経済的な問題で自立が難しいという社会的な背景をカムフラージュし、親と同居する若者の増加をすべて若者の精神の問題として捉えられてしまっている。そのような山田氏の論は、人々に親と同居する若者に対して嫌悪感やバッシングを誘うだろうが、若者の自立困難な問題の解決の道筋を示すことはないだろう。そうした意味で山田氏の「パラサイトシングル」論も「ダメな議論」である。
●定義が抽象的で曖昧なニート論
現在において、だらしない若者像を表象する存在といえばニートであろう。すでにニートは世間一般によく知られているので、今更私がここで、ニートの意味について説明する必要はないと思うが、「ニート(NEET)」とは、「Not in Education,Employment or Training」の頭文字をとった言葉で、「就業せず、学校も行かず、職業訓練も受けていない」15〜34歳の若者を指している。
ニートという存在が世間に広まったのは、東京大学助教授の玄田有史氏とフリーライターの曲沼美恵子氏の共著『ニート−フリーターでもなく失業者でもなく』(幻冬舎 2004)が04年にベストセラーになって以降だといわれる。その後、ニートはメディアで話題にされるたびに、惰弱で醜く堕落した「現代のダメな若者」の象徴のように伝えられ、世間においてニートは忌むべき存在と化し、バッシングや矯正すべき対象となった。
ニートは、「就業せず、学校も行かず、職業訓練も受けていない」若者を指していることから、世間一般では「怠惰な若者」同然の扱いを受けているが、どのような若者をニートであると判断するかについて定義が抽象的で非常に曖昧である。
その良い例は、家事手伝いをニートとして扱うかどうか政府内で見解が分かれている事実ではないか。家事手伝いは、内閣府の「青少年の就労に関する研究」においてニートに含まれている一方、厚生労働省の『労働経済白書』では除外されており、家事手伝いをニートに含めるかどうか政府内で見方が分かれている。
どのような若者がニートであると判断されるのか、その定義の曖昧さは、ニートとひきこもりの混同さえも生み出している。ニートの自立を支援するNPO法人「ICDS」の「ニートとひきこもりの定義分けが難しい」という言説が顕著な例であろう。(注2)
本田由紀氏たちの著書『「ニート」って言うな!』(光文社新書 2005)によって、ニートは、世間で騒がれているほど増加していないこと(*1)や、先ほど私がいったようなニートがひきこもりのイメージと重ねて述べられていることなどが明らかにされ、既に世間で批判されるニートがまやかしであると示されている。今更、若年層の労働問題の専門家でもない私がニートについて言及する必要はないだろう。しかし、ニートを含む若者の貧困や雇用問題などは、格差問題の解消を考えるうえで避けては通れない問題でもあるので、今回、恐れ多いが、私もニートについて少しばかり論じさせていただくことにする。私は主に玄田有史氏や小杉礼子氏らが広めたニート論の、どのような若者がニートであると判断されるのかについて定義が曖昧な点やニートがひきこもりと混同されているところを指摘しつつ、玄田氏らのニート論について批判を試みる。
そもそもニート(NEET)とは、イギリスで生まれた労働政策統計上の専門用語である。イギリスにおけるニートの定義と日本における定義には、いくつかのズレがみられる。イギリスにおけるニートの年齢層は、16〜18歳というごく狭い範囲であるのに比べて、日本においてニートの年齢層は、15〜34歳という幅広い範囲である。また、日本ではニートはひきこもりと混同されて扱われるのに対して、イギリスではニートに失業者を含めている。発祥地であるイギリスにおけるニートの定義と対比してみると、明らかに日本で扱われるニートの定義は、イギリスから導入した後、日本の若者たちの事情に当てはめるために強引に変形されて創られたものといえる。おそらく、日本におけるニートの、どのような若者がニートであると判断されるのかについて定義が曖昧なのは、イギリスからニートという労働政策統計上の専門用語を輸入した時点で、ニートは働く意欲のない若者であると解釈されてしまったからではないだろうか。そのせいで、どのような若者がニートだと判断されるのかについて曖昧なまま、ひたすら、ニートは怠けている若者やひきこもりなどのイメージで語られてしまっているのではないか。
日本におけるニートの、どのような若者がニートであると判断されるのかについての定義の曖昧性や、ひきこもりとの混同について、やはり、ニートを世間に広めた玄田有史氏に責任があるだろう。現に玄田氏の言説をみると、ニートを社会の構造上の問題であると捉えるよりも精神的な問題であると判断する傾向が強い。たとえば、玄田氏は、『文藝春秋3月号』(文藝春秋 2006)で、ニートについてこのように述べている。
「ニートには、働くことに自信を失っていたり、対人関係を築くのに困難を抱えている人々が多い。心身の病によって働けない場合もある。そんな人たちかにすれば、目の前にどれだけ求人が並んだところで仕事には踏み出せないのだ」。
この玄田氏の言説に現れている、「働くことに自信を失っていたり」や「対人関係を築くのに困難を抱えている人々が多い」、「心身の病によって働けない場合もある」という言葉をみると、玄田氏はニートを社会の構造上の問題であると判断するよりも精神的な問題であると捉える傾向が強いことは明らかであろう。こうした玄田氏のニートに対する見解が、ニートとひきこもりとの混同を生み、ニートを無気力で心が弱い若者だというイメージを助長させたのではないか。このような玄田氏の言説は、これから述べる、玄田氏と小杉礼子氏の共著『子どもがニートになったら』(生活人新書 2005)においてもみられる。
玄田氏と小杉氏の共著『子どもがニートになったら』は、玄田氏と小杉氏の論説をはじめ、精神科医でひきこもり問題の第一人者とされる斉藤環氏やキャリアカウンセラーの小島貴子氏らとの対談を載せている。
この書においても玄田氏は、相変わらずニートについて、自信の無さやコミュニケーション能力の欠如など精神的な要素を中心に述べている。また、しまいには、ニートについて論じているはずなのにひきこもりの事例をたびたび挙げたり、しばしば「ニートやひきこもり」といったような言い回しをして、ニートとひきこもりを並列的に扱ったりしている始末だ。特にニートの親たちへひきこもりを支援しているNPO団体への相談や斉藤環氏のひきこもりに関する本などを薦めているところをみると、玄田氏は、ニートとひきこもりを混同させているようにしか思えない。玄田氏がここで、どのような若者がニートであると判断されるのかについての定義の設定を置き去りにしたまま、先ほど私が挙げたようなニートについて論説を展開しているところをみると、やはり、玄田氏はひきこもりのイメージを抱いたままニートを論じているのではないか。
玄田氏とともにこの書を著した労働政策研究・研修機構の小杉氏も玄田氏と同じく、ニートを世間に広め、認知させた立役者的存在としてその名が知られている。小杉氏は、ニートについて言及する前、フリーター研究の第一人者として知られていた。小杉氏が、04年5月17日の『産経新聞』で「働かない若者『ニート』、10年で1.6倍 就業意欲なく親に寄生』(*2)というタイトルの記事を載せたことがきっかけとなり、ニートが社会問題として扱われるようになった。小杉氏は、『子どもがニートになったら』において、第2章「だれがニートなのか」でフリーターとニートを区別しながらニート論を展開しているが、どのような若者がニートであると判断されるのかについての定義やニートとひきこもりとの違いについて明確に示していない。
小杉氏は、イギリスと日本におけるニートの違いを示したうえで、日本のニートを「社会活動に参加していないため、将来の社会的なコストになる可能性があり、現在の就業支援では十分活性化できない若者」と定義している。この小杉氏がいう日本型ニートの定義のなかに「就業支援」という言葉が含まれているので、一見すると、小杉氏はニートを若年労働者の労働環境や待遇、雇用情勢の悪化など社会の構造上の問題として考察されているかのようにみえる。しかし、小杉氏は、ニートを働かず、学校に通学も在学もしていない、求職活動もしていない若者であると捉え、しかも、イギリスのニートの定義と異なって失業者が含まれておらず、そればかりかニートの年齢の範囲を15〜34歳としている。世間一般に流布されている、抽象的で曖昧なニートの定義とほとんど変わらないのではないか。
また、家事手伝いをニートに含めるかどうかの議論では、小杉氏は、明確な根拠を示さないまま『労働経済白書』の「在学もしていない、かつ、結婚しておらず家事もしていない非労働力人口」と定義されるニートを狭義のニートとし、内閣府の「青少年の就労に関する研究」でニートに含まれている家事手伝いを、家事手伝いをしているニートとすることで、それらを分けて論述している。家事手伝い自体に結婚を控えている女性や母親が亡くなって一家の主婦代わりを務めている女性、身体に重い障害を抱えているため就労が困難である者も含まれるという見方もあるので、単純に社会の構造上において労働力として扱われないからといって、家事手伝いをニートに含めるかどうかという議論をするのは、不適切ではないのか。
小杉氏は、世間一般に広まっている、抽象的で曖昧なニートの定義で議論しており、そればかりか、明確な根拠を示さないまま家事手伝いをニートに含めるかどうかという議論を展開している。そのようなところをみると、小杉氏のいう日本型ニートは、だれがニートなのか、ニートは一体どのような若者なのかといったような議論において、具体的なイメージに欠け、定義が曖昧であるといえる。
さらに玄田氏、小杉氏らと斉藤環氏や小島貴子氏など若者に関する問題の専門家たちとの対談においても、どのような若者がニートであると判断されるのかについての定義の曖昧さや、ニートとひきこもりとの混同が随所にみられる。斉藤氏をはじめとする専門家たちとの対談では、ニートとひきこもりを並列的に扱って述べられており、どういうわけか、ニートが議論の主題なのにもかかわらず、ひきこもりの事例が頻繁に登場している。ニートとひきこもりの区別がついていないのではないか思えてしまう。最もそうした点で顕著なのは、斉藤氏の言説である。
精神科医でひきこもり問題の専門家である斉藤氏は、小杉氏との対談でニートとひきこもりについて、このように述べている。斉藤氏によれば、ひきこもりは家族との関係や社会との関係を断ち、ニートは社会との関係を断ち切って、自分の世界のほうに留まっていたいという。どちらも自分の殻に閉じこもるという意味では、ほとんど一緒でどちらも変わりないのではないか。明らかに斉藤氏は、ニートとひきこもりを混同させている。小杉氏は斉藤氏のこの言説に対して、訂正を加えたり、意見を述べたりすることなく、議論をそのまま進行させている。
このような斉藤氏の見解で明白なのは、ニート問題の専門家であると称する彼ら自身、ニートとひきこもりの違いを示せないことであろう。つまり、彼らはニートとひきこもりの区別ができないのである。この本において、玄田氏や小杉氏の論述や、斉藤氏をはじめとする若者の問題に関する識者との対談にしろ、彼らの言動のなかでニートとひきこもりが並列的に述べられていたり、ニート問題が議論の主題なのにもかかわらず、たびたびひきこもりの事例が挙げられたりするのは、玄田氏たち自身、ニートとひきこもりを異なった概念として区別ができないまま、ニートについて述べているのではないか。それは、ニートとひきこもりを混同させているといっていいだろう。
それはイギリスから輸入した、労働政策統計上の専門用語として扱われるニートを無視して、強引にニートという概念を日本の若者に適用していることが大きいだろう。ニートが働く意欲のない若者であると解釈されてしまったことが、どのような若者がニートであると判断されるのかについての定義やニートとひきこもりとの混同に繋がっているのではないか。
働く意欲のない若者という意味を示す日本型ニートの定義は、ニートであると判断される若者たちの個々人の事情を考察せず(*3)、ただ短絡的に表面上働いていないというだけで、そのような若者を日本型ニートの概念に当てはめており、どのような若者がニートであると判断されるのかについて定義が曖昧である。それは、政府内で見解が分かれる家事手伝いをニートに含めるかどうかという議論や玄田氏らニート問題の専門家だと称される識者の言説をみても明らかではないか。
最近では、外に出て労働せずにインターネット上の株取引などで生計を立てている人々を指す「ネオニート」という言葉も出現しており、そのような様子をみると、日本のニートに対する見方は、ますます本来イギリスで労働政策統計上の専門用語として扱われているニートの概念との乖離が進行しているといえる。それは、ニートを働く意欲のない若者であると解釈し、ニートを社会の構造上の問題であるという視点を排除して、単にニートであると判断される若者たち個々の精神の問題として論じられてしまったことが大きい。ニート問題それ自体が、精神という実態が曖昧なものを焦点に議論が展開されているからといえるだろう。
本田氏たちの著書『「ニート」って言うな!』に比べて論述が断片的であるが、以上で私が述べたように玄田氏と小杉氏のいうニート論の、どのような若者がニートであると判断されるのかについて定義は、抽象的で曖昧である。ニートであると判断される若者たちの個々の事情を考察せず、単に表面上働いていないというだけで、そのような若者たちをニートという抽象的で曖昧な概念に当てはめようとするのは、ある意味、レッテル貼りという行為に等しい。このようなレッテル貼りに似たニートについての議論は、精神という抽象的で実態が確認できないものを焦点に当てて論じており、そのような議論の展開は、ニート問題を解消する合理的な解決方法を提案できないばかりか、世間において、ひたすらニートであると判断される若者たちへの嫌悪やバッシングばかり生み出している。そういう意味でいえば、このようなニート論は、「ダメな議論」である。今後、貧困化する若者たちについて論じる場合、玄田氏や小杉氏たちが述べる曖昧で抽象的なニート論を退け、若者たちを取り巻く就労環境など社会の構造上の問題に焦点を当てて議論する必要があるだろう。
●若者の貧困を精神の問題として扱うのは、即座に止めるべきだ 私は、今回、2回に渡り、フリーターや派遣社員、ニートの増大など、若年層において広まる貧困を、働く意欲の欠如や自立しようとしない若者の意識などに求める考え方を批判した。私が前回、批判した三浦展氏の『下流社会−新たな階層集団の出現』(光文社新書 2005)や山田昌弘氏の「パラサイトシングル」論、玄田有史氏や小杉礼子氏らが述べるニート論のいずれも調査する対象が不明確で曖昧であり、検証や考察が不十分で解釈が短絡的である。若年層における低収入労働者やニートの増大を、働く意欲の欠如や自立しようとしない若者の意識などに求める意見で共通するのは、社会の構造上の問題としての考察が退けられ、ひたすら精神的な問題として論じられていることである。
精神という存在は、形がなく、実態は抽象的で曖昧である。こうしたものは、いかようにも扱うことができるだろう。ニート問題では、働く意欲がないとされる若者の個々人の精神の問題とされ、どのような若者がニートであると判断されるのかについての定義が曖昧となり、ニートがひきこもりと混同されているところをみると、精神を対象に若者の貧困を論じるのは、無理があるといえる。貧困化する若者たちの問題を精神の問題として扱うと、調査や検証する対象が曖昧になり、また、分析も実証的ではなくなってしまい、単なる精神論と化してしまう恐れがある。こうしたことを避けるには、把握困難な貧困化する若者たち個々人の精神に関する議論を退け、統計調査や経済の動向などで把握ができる労働経済学上の観点から議論するべきである。貧困化する若者たちの精神に関する議論は、労働経済学的な視点で考察したあとに試みるべきであろう。 まず、若者たちの貧困の問題は、把握が可能な若者たちの就労環境の問題として考察しなければならない。把握が難しい精神の問題として若者たちの貧困を論じると、議論そのものに矛盾や混乱を抱えてしまいかねないので、今後、貧困化する若者たちを考えるうえで、このような視点は放棄しなければならないだろう。精神のような抽象的で曖昧なものは、語りえないものであり、それについて沈黙しなければならない。
(*1)本田氏によれば、非希望型のニート(仕事に就くことを望んでいないニート)は、92年から02年の10年間でほぼ42万人のままでほとんど増えていないという。また、非求職型のニート(仕事を探していないけれども仕事に就くことを望んでいるニート)も10年間で17、8万人増加しているが、同年代の求職型(失業者)が64万人から129万人に倍増したのに比べて、絶対数も伸び率もはるかに少ないという。
(*2)この記事のなかで小杉氏は、ニートを@「ヤンキー型」、A「ひきこもり型」、B「立ちすくみ型」、C「つまずき型」に分類しており、ひきこもりが類型のひとつに挙げているところをみると、小杉氏は、ニートとひきこもりを混同しているか、ニートを精神の問題として捉えているといえる。
(*3)本田氏によると、非希望型、非求職型のニートのなかには、「家事手伝い」ばかりでなく、予備校生や浪人生といった「進学・留学準備中」の人、司法試験や公務員試験等の「資格試験準備中」、「療養中」、「結婚準備中」、「介護・育児」、「芸能・芸術関連のプロを目指して準備中」というような労働意欲を持っている人々が3分の2までを占めていると言う。
(注1)本田由紀・内藤朝雄・後藤和智『「ニート」って言うな!』(光文社新書 2005)P227 (注2)『読売ウィークリー 2006年4月16日号』(読売新聞社 2006)
<参考資料> ・飯田泰之『ダメな議論−論理思考で見抜く』(ちくま書房 2006) ・『諸君 2006年3月号』(文藝春秋 2006) ・稲葉振一郎・本田由紀・若田部昌純「そんなにいるわけがないニート「85万人」の大嘘」 ・玄田有史・小杉礼子『子どもがニートになったら』(生活人新書 2005) ・橘木俊詔『脱フリーター社会』(東洋経済新報社 2004) ・本田由紀・内藤朝雄・後藤和智『「ニート」って言うな!』(光文社新書 2005) ・『文藝春秋3月号』(文藝春秋 2006) ・山田昌弘『パラサイトシングルという生き方』(ちくま書房 1999) ・『読売ウィークリー 2006年4月16日号』(読売新聞社 2006)
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| (2008.2.14[Thu]) |
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| 「格差社会に断固、徹底抗戦―俺はぶっ殺されるまで戦うぞ!!」 ■序章−・もう止そう、「若者はダメ」というダメな議論は−@胡散臭さ漂う、三浦展氏の『下流社会』 |
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昨年の9月26日に発足した安倍内閣の「再チャレンジ」政策では、若年のフリーターや派遣社員の正社員化が目指されており(「公務員のフリーター枠採用」の導入を断念したところからみると、全く期待できないが)、バブル崩壊後に増大した多くの若い低収入労働者の存在が現在、深刻な社会問題となっている。97万人ともいわれる年長フリーターの存在をみれば、明らかだろう。世間では、こうした問題に対して、「若者はだらしないから、就職しないのだ」とか、「若者は甘えている」といったような、若者の間でフリーターや派遣社員など低収入労働者が増加するのは、自立する気概がない若者の情けない意識が原因であるとする見方が幅を利かせている。 しかし、総務省の「就業構造基本調査」をみると、20〜24歳や25〜29歳、30〜34歳の非正社員比率は、就職氷河期といわれた97年以降、上昇し続けている。それに対して、厚生労働省の「賃金構造基本調査」では、正社員の人口は95年で2400万人を超えたが、97年から正社員の人口は減少し続けている。これらのデーターから近年の雇用情勢をみると、若者の就労は厳しいといえる。若者の間でフリーターや派遣社員など低収入労働者が増大しているのは、必ずしも自立しようとしない、若者のだらしない意識ばかりに原因があるとは限らないだろう。 現在、このような見解を一部の労働経済学者たちが強調しても、若者の働く意欲を向上させようとする「若者の人間力を高めるための国民会議」の05年の発足などにみられるように、若年層におけるフリーターや派遣社員などの増加は、依然として若者の自立心に欠ける意識にのみ原因があるとする見方が支配的である。 今回から私は、2回にわたって、フリーターや派遣社員など若年層における低収入労働者の増大を、自立しようとしない若者の意識にのみ原因があるのだとする考え方について、批判を試みる。今回はまず、近年、だらしない若者をバッシングする代表的なアイテムと化している三浦展氏の著書『下流社会−新たな階層集団の出現』(光文社新書 2005)について批判する。次回は、現在における若者バッシングの先駆けとさえいえる山田昌弘氏の『パラサイトシングルという生き方』(ちくま書房 1999)と、現在、「ダメな若者」の象徴のように語られるニートを広めた玄田有史氏や小杉礼子氏らが述べるニート論を批判する。
●どこか胡散臭さ漂う、三浦展氏の『下流社会』
05年に三浦展氏が出版して、ベストセラーになった『下流社会』では、フリーターや派遣社員などの下流の若者たち(主に団塊ジュニア世代)は、地位や名声、お金に対する欲求が欠けていて、将来の目標がないまま、好んでだらだらと生活するような性格の持ち主であるように論じられている。 三浦氏は、下流の若者たちには、コミュニケーション能力や生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲など人生に対する意欲が低いと述べる。しかも、三浦氏がいう下流の若者たちは、そのような意欲が欠如した結果、所得が上がらず、未婚のままであるそうだ。そればかりか、三浦氏によれば、下流の若者たちのなかには、好んでだらだらとした生活を送っている者が少なくないらしい。 私は、『下流社会』の最初のページを開いて、まず目に留まったのは、この本の冒頭にある「下流度チェック」である。「下流度チェック」では、「年収が年齢の10倍未満だ」や「自分らしく生きるのがよいと思う」などのような項目が12ほど用意されていて、そのうち半分以上、自分に当てはまるものがあれば、三浦氏によると、下流であるという。私は、さっそくチェックを試しに行ったところ、その12項目のなかで該当するものが、半分以上あった。三浦氏のいうところに従えば、私は下流で、だらだらと生活する若者たちの一人ということになる。いわば、私は三浦氏からみると、情けない「下流クン」ということか。 『下流社会』のなかで三浦氏が定義する、将来の目標がないまま、好んでだらだらと生きる下流の若者たちという像は、読者に「ダメ人間」や「出来損ない」といった言葉を想起させる。私は自分がだらしない若者の一人であると思うと正直、自分に対して嫌悪感でいっぱいになる。と同時に、だらだらとした生き方を好む「下流クン」である私は、先述で示したような三浦氏の下流の若者たちに対する見解に、腸が煮えくり返る思いを禁じ得ない。もし、三浦氏が私の目の前にいれば、私は三浦氏の顔面に正券突きを喰らわしたいものだ。 社会科学に関してド素人な私でも、冷静且つ慎重に『下流社会』を読むと、『下流社会』における三浦氏の見解が、いくつかの点で疑わしく思える。 まず、私が『下流社会』の信憑性が疑わしいと思えるのは、『下流社会』で三浦氏が用いた欲求調査と称されるアンケート調査のサンプル数が少ないことである。『下流社会』では、三浦氏をはじめカルチャースタディーズ研究所が行った欲求調査を下敷きに、世代別の階層意識が論じられている。『下流社会』で扱われた欲求調査は、郵送質問紙法で行われ、対象は1都3県(きわめて狭い範囲だ)の在住者約800名で、世代別・男女別に各100人である。対象は、昭和ヒトケタ世代(1931〜37年生まれ)・団塊世代(1946〜50年生まれ)・新人類世代(1961〜65年生まれ)・団塊ジュニア世代(1971〜75年生まれ)と、4種類に分けられる。 『下流社会』では、1都3県の在住者約800名を対象に、階層意識についてアンケート調査が行われている。その1都3県の在住者約800名を対象に行った欲求調査のサンプルを世代別や男女別に分けると、前に述べたように各サンプルの数は100である。『下流社会』では、団塊ジュニア世代の下流が、だらだらとした生き方を好む若者たちと定義されている。団塊ジュニア世代のサンプル数は、男女合わせると200であるが、それを性別や年齢、職業、階層意識など各項目別に分けると、必然的に数十に絞られる。団塊ジュニア世代のなかで、階層意識が「上」と答えたのは、わずか12人にすぎない。このようなサンプル数が少ないアンケート調査で、はたして適切な答えが導き出されるのであろうか。また、そのようなサンプル数が少ない調査をもとに導き出した、三浦氏がいう下流の若者の将来の目標がないまま、好んでだらだらと生きるという定義は、はたして妥当なのか。私は首を傾げる。 三浦氏自身も、欲求調査について、あとがき(注1)でこのようにのべている。 「そもそも本書(『下流社会』)で紹介した私のアンケート調査は、サンプル数が少なく、統計的有意性に乏しいことは認めざるを得ない」 つまり、三浦氏は自分が行った欲求調査に対して自信が持てないのだ。三浦氏は確信がないまま、団塊ジュニア世代の下流をだらだらとした生き方を好む下流の若者たちと定義していたのである。フリーターや派遣社員などで働く若者たちは、このような三浦氏の態度に憤りを示しても良いのではないか。私なら先ほどにも述べたように、三浦氏が目の前にいれば、顔面を殴るつもりだ。 次に疑わしく思えるのは、自分らしく生きたいと思うがゆえに、下流の団塊ジュニア世代は、だらだらとした生活から脱け出せないのだという三浦氏の見解である。三浦氏らが行った欲求調査によると、「生活のなかで大事にしていること」や「あなたの人生に対する考え方について、近いものは下記のうちどれですか」という質問に対して、「自分らしく生きること」を答えた者は、階層意識「下」が最も多かったという。三浦氏は、それを根拠に、下流の若者たちは、自分らしく生きたいと思っているため、階層意識の上昇はおろか、所得が低いままだらしなく日々を過ごすしかないのだといっている。 しかし、『下流社会』では何をもって「自分らしく生きること」としているのか、はっきりと定義していないばかりか、具体像さえ提示できていない。あたかも、暗黙のうちに読者に「自分らしく生きること」の意味が了解されているかのように、三浦氏は、下流の団塊ジュニア世代は、自分らしく生きたいと思うがゆえに、だらだらとした生活から脱け出せないのだと述べる。 聞くところによれば、社会学者が、「自分らしく生きること」のような定義が曖昧で、抽象的な概念を取り扱う場合、まず、今問題となっている「自分らしく生きること」とは何かを明確に規定しなければならないのだという。であれば、三浦氏が「自分らしく生きること」の意味を明確にせず、曖昧なまま見解を述べているという姿勢は、社会科学的な思考として失格であるといえるだろう。 三浦氏らカルチャースタディーズ研究所が行った欲求調査では、「自分らしく生きること」を答えた者の数が階層意識「上」よりも「下」が相対的に多かったという。三浦氏はそれを根拠に、下流の若者たちは、自分らしく生きたいと思っているために、階層意識が上がらず、所得が低いままだらだらと日々を送っているのだと述べる。しかし、(社会学者は、どのように社会調査の結果から答えを導くか、私は素人なのでわからないが、)三浦氏のそのような見解は、欲求調査のなかで「自分らしく生きること」を答えた者の数が階層意識「上」よりも「下」が相対的に多かったという点だけみて、得られたものにすぎない。 『下流社会』のP169で掲載されている、表5-5の団塊ジュニア世代の自分らしさ派と非自分らしさ派の階層意識を比較したデーターの内訳をよくみて慎重に考察すると、三浦氏のいうような、下流の団塊ジュニア世代は、自分らしく生きたいと思っているから、だらしない生活を送っているという見解は必ずしも適切ではないと思える。表5-5の団塊ジュニア世代の自分らしさ派と非自分らしさ派の階層意識では、やはり、男女共に階層意識「上」は、非自分らしさ派が自分らしさ派よりも多い。しかし、非自分らしさ派の男性のなかで、階層意識「上」は、わずか13.4%で最も少ない。非自分らしさ派のなかで最も多い階層意識は、44.8%の「中」で、二番目に多い「下」の41.8%と大した差はない。自分らしさ派の男性でも最も少ない階層意識はもちろん、9.1%の「上」である。非自分らしさ派の女性も階層意識「上」の比率は20.0%で、最小である。 三浦氏は、欲求調査で「自分らしく生きること」を答えた者の数が階層意識「上」よりも「下」が相対的に多かったということから、下流の団塊ジュニア世代は、自分らしく生きたいと思っているゆえ、だらしない生活を送っているのだと述べている。しかし、それは相対的に「自分らしく生きること」を答えた者の数が階層意識「上」よりも「下」が多かったというところから導き出された見解にすぎない。非自分らしさ派の男性のなかで、階層意識が「上」という者は、ごくわずかで、最も少ないというところからみると、必ずしも下流の団塊ジュニア世代は、自分らしく生きたいと思うがゆえに、だらだらとした生活から脱け出せないのだという見方は、適切ではないだろう。 なぜ、現在において、多くの下流の若者たちは、「自分らしく生きること」というような自己実現の達成を志すようになったのか、それについて三浦氏は、明確な見解を示していない。 三浦氏は、「自分らしく生きること」を志向する下流の若者たちは、自分らしく生きようと漫画家やアニメ作家、ミュージシャンなど、主にサブカルチャーの分野で成功することを夢見ていると指摘しており、そこから考えると、おそらく、三浦氏のいう曖昧で不明瞭な「自分らしく生きること」というのは、自己実現の達成を意味していると考えられる。 どうして現在において、下流の若者たちの多くは、「自分らしく生きること」というような自己実現の達成を目指すようになったのか、それについて三浦氏は、団塊ジュニア世代の親の世代にあたる団塊世代の影響が強いと考える。三浦氏によれば、欲求調査の「生活のなかで大事にしていること」や「あなたの人生に対する考え方について、近いものは下記のうちどれですか」という質問で、団塊世代の多くが選んだのは「自分らしく生きること」であったという。しかも、階層意識に差がないばかりか、団塊世代では「上」ほど、「自分らしく生きること」という人生観が支持されているそうだ。三浦氏はそれを根拠に、団塊ジュニア世代の下流の多くが、「自分らしく生きること」というような自己実現の達成を志向して、低所得のままだらだらと生活するのは、親の世代である団塊世代の価値観をそのまま受け継いだからと述べる。 多くの団塊ジュニア世代の下流が、「自分らしく生きること」というような自己実現の達成を目指して、低所得のままだらだらと生活するのは、三浦氏のいうように団塊世代の責任であるとするのは、乱暴ではないか。階層意識が「上」や「中」の団塊ジュニア世代は、親である団塊世代から何も影響を受けなかったのか。また、「自分らしく生きること」を志向する団塊ジュニア世代の多くが下流である原因を、三浦氏のように単純に彼らの親の世代の団塊世代や本人の意識に求めようとすれば、バブル崩壊以後の若者の就職難は家庭の問題や本人の自己責任として論じられるしかない。やはり、三浦氏には、団塊ジュニア世代の下流が、バブル崩壊後、変化する時代の潮流や社会の構造のなかで、どのように「自分らしく生きること」を志向するようになったのか、というような視点が欠けているだろう。 バブル崩壊後、時代や社会の構造的な変化のなかで、階層意識に関わりなく、多くの若者たちが、「自分らしく生きること」というような自己実現の達成を志すように強制させられた。城繁幸氏は、『若者はなぜ3年で辞めるのか?−年功序列が奪う日本の未来』(光文社新書 2006)で、バブル崩壊後から、若者が自分のやりたい仕事とか、自分に合った仕事などといったような「自分らしく生きること」について、考えるようになったのは、採用する側である企業の人材に対する考え方の変化が主な要因であると述べている。城氏によれば、バブル崩壊以前では、日本企業は、なんでもそつなくこなせるタイプの人材を新卒で一括採用していたという。しかし、バブル崩壊後、企業は新卒者数を大幅に縮小せざる得なくなり、組織のコアになれる人材のみ採ろうとする厳選採用へ転換した。厳選採用へシフトした企業は、採用面接でくどいほど、新卒者たちに熱意や意欲といった抽象的なものを問いかけるようになった。新卒者たちが面接で浴びせられる質問の代表例は主にこれらであろう。 「具体的にどんな仕事を希望しますか」 「その仕事を通じて実現したい目標は何ですか」 「希望職種にマッチした専門性は持っていますか」 企業の新卒採用自体が、バブル崩壊後、学校卒業して社会に出た団塊ジュニア世代の若者たちに対して、自分探しを要求しているとさえいえる。企業の採用がこのように変化したなか、団塊ジュニア世代の若者たちは、自分のやりたい仕事は何か、どういう分野で自らの力を発揮したいか、学生という企業からみて外側の立場から、真剣に悩み、考え込み、自分なりの答えを発見しなければならないのだ。三浦氏のいうように、決して単純に親の世代である団塊世代の影響が大きいから、団塊ジュニア世代の下流は、「自分らしく生きること」を志向するようになったというわけではないだろう。バブル崩壊後の企業の厳選採用をみると、若者たちが「自分らしく生きること」を希望するのは、むしろ時代の流れであるといえる。「自分らしく生きること」を望むことが、下流の団塊ジュニア世代が低所得である原因であるとすれば、企業の厳選採用をどのように見直すか、それについて論じるしかないだろう。 三浦氏のように下流の団塊ジュニア世代が低収入である原因を、親の世代である団塊世代の影響や彼ら自身の働く意欲のなさばかりに求めると、必然的に企業の厳選採用が生む若者の就職難をカムフラージュされてしまうだろう。それが、本人のやる気や意識に格差の原因があるとする見方の最も恐ろしいところである。 私は三浦氏が、自身らカルチャースタディーズ研究所が行ったアンケート調査の結果と全く相反する諸々の調査の結果に対して、何も批判していないことに疑問を抱いている。三浦氏は、『下流社会』のなかで、欲求調査の結果をもとにフリーターや派遣社員など、下流の若者たち(団塊ジュニア世代)には、働くことに対する意欲が欠けていると述べている。しかし、リクルートリサーチが2000年に行った「アルバイターの就労難に関する調査」では、20代後半の7割が正社員としての就職を希望しているという結果が出ている。また、厚生労働省の「若年者のキャリア支援に関する実態調査」(2003)で、フリーターと正社員に「A・仕事のためには私生活を犠牲にするべきだ」と「B・仕事を犠牲にしてまで仕事に打ち込む必要はない」という選択肢のうち、どちらに近い考えを持っているかをたずねた結果、「A・仕事のためには私生活を犠牲にするべきだ」を選んだフリーターの割合は9.6%で、正社員の4.6%を上回っていたという。決して、フリーターや派遣社員は、働く意欲が欠けているのではないのだ。むしろ、問題にするべきなのは、多くの若者たちが働く気があるのにもかかわらず、正規雇用への入口が狭められ、フリーターや派遣社員などのような非正規雇用としてしか働き口が与えられていない現在の雇用環境であろう。 以上で私が述べたように、三浦氏の『下流社会』は、サンプル数の少なさをはじめ信憑性に欠ける点がいくつか目に付く。三浦氏の論を何も考察せずに、そのまま受け入れるのは危険であろう。無用な若者バッシングを助長する恐れがあるからだ。しかも、三浦氏は『下流社会』のあとがきで、欲求調査のサンプル数の不足から自らの見解に自信がないことを述べている。にもかかわらず、三浦氏は、下流の若者たちが低収入労働者から抜け出せないのは、彼ら本人がだらだらした生き方を好んで送っているからだと述べている。ある意味、三浦氏はデマゴーグとさえいえるのではないか。結果的に三浦氏がそのような見解を示すことで、若者たちをとり囲む厳しい就労環境を隠蔽しているばかりか、三浦氏の『下流社会』が若者バッシングを助長させているのだから。 リクルートリサーチが2000年に行った「アルバイターの就労難に関する調査」や厚生労働省の「若年者のキャリア支援に関する実態調査」(2003)でみてわかるとおり、フリーターや派遣社員など非正社員の若者たちは、決して働く気に欠けるわけではない。彼らのほとんどは、バブル崩壊後の不況や97年度の就職氷河期、近年の非正規社員の増大などで正規社員への入口から締め出されたのである。今後、若年の低収入労働者の増加に対する是正策を考える際、若者たちの不甲斐無い意識にばかり原因を求める、いうなれば、「若者はダメ」論は遠ざけなければならないだろう。 繰り返していうが、若者の就労に関わる問題で、現在、最も深刻であるのは、多くの若者がフリーターや派遣社員などのような非正規雇用としてしか働き口が与えられない状況であって、決して、若者の働く意欲の欠如ではない。バブル崩壊後、社会に出た多くの若者たちが正規雇用の道を閉ざされ、フリーターや派遣社員などのような非正規雇用として働くしかなかった。世間は、そうした若者の厳しい就労環境を理解しないまま、彼らに「怠け者」というレッテルを貼り、ひたすら、「働け」、「働け」と叱咤するばかりであった。そればかりか、世間は、「パラサイトシングル」や「ニート」といった、情けない若者たちを表象する様々な概念を使って、殊更、若年層に低収入労働者が増大するのは、彼らが真面目に働く気がないからだ、といったような論調を拡大させた。その結果、若者たちをとり囲む厳しい就労環境がカムフラージュされてしまった。そうしたことから考えると、若者は自立しようとしないとか、若者はだらしないといったような「若者はダメ」論は、ダメな議論としかいいようがない。そのようなダメな議論は、明確な根拠がないばかりか、ひたすら若者に対する感情的なバッシングを生むだけで、合理的な解決策を提供することはないだろう。今後、増える若年の低収入労働者の問題を考える場合、原因を若者の不甲斐無い意識ばかりにのみ原因を求めるようなダメな議論は避け、若者たちの就労環境をどのように改善するか、それについて徹底的に考察しなければならない。 次回は、現在における若者バッシングの先駆けとさえいえる山田昌弘氏の『パラサイトシングルという生き方』と、現在、「ダメな若者」の象徴のように語られるニートを広めた玄田有史氏や小杉礼子氏らが述べるニート論を批判するつもりだ。
(注1)三浦展『下流社会−新たな階層集団の出現』(光文社新書 2005)P283
〈参考文献〉 ・飯田泰之『ダメな議論−論理思考で見抜く』(ちくま書房 2006) ・城繁幸『若者はなぜ3年で辞めるのか?−年功序列が奪う日本の未来』(光文社新書 2006) ・本田由紀・内藤朝雄・後藤和智『「ニート」って言うな!』(光文社新書 2005) ・三浦展『下流社会−新たな階層集団の出現』(光文社新書 2005)
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| (2007.2.28[Wed]) |
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| 「格差社会に断固、徹底抗戦―俺はぶっ殺されるまで戦うぞ!!」 ■序章−・「機会の平等が成立したうえでの、格差なら認められるべきだ」という言説のまやかし |
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平等という概念をどのように設定するべきか、現在、格差問題を考察するうえで、それは、今日起こっている、所得格差をどのような方策で解消するのかという問いとともに、重要で避けられない課題となっている。どのような平等が望ましいか、そのような問いに対して二つの平等に関する概念が経済学者や社会学者たちの間で浮上している。その二つの平等に関する概念とは、「結果の平等」と「機会の平等」である。「結果の平等」とは、平たくいえば、すべての個人を同じように処遇するという意味合いを持つといわれる。それは、主に所得が公平に、すべての社会の構成員に分配されているか、という問いについて考える場合に、扱われるという。一方、「機会の平等」は、出身階層など生まれによる差別を排し、できるだけ、すべての個人の人生におけるスタートラインを平等化して、対等に諸個人を競争させるという概念であるという。「機会の平等」は、「結果の平等」がすべての個人を同じような待遇にするのと違って、人生を送るうえで、個人の才能や努力で得た地位や名誉、所得は肯定され、そのような格差は認められるべきであるとする。
●「結果の平等」が成立しなければ、「機会の平等」は機能しない
どのような平等が望ましいか、そのような問いについて、現在、「結果の平等」から「機会の平等」へと方向が転換している。それに関する最近の顕著な例は、06年12月26日の再チャレンジ支援に関する関係閣僚会議で、正式に了承された「再チャレンジ支援総合プラン」であり、そこでは機会の均等が重点課題の一つとされている。「再チャレンジ支援総合プラン」で掲げる機会均等は、フリーターや派遣社員など、非正社員から正社員への移行が困難な若者のために、雇用機会確保の努力義務を課す法の改正や、育児中の女性を支援する在宅就業への支援強化で達成を志向するという。「結果の平等」から「機会の平等」への移行は、すでに00年に提出された「21世紀日本の構想」懇談会の報告書にみられる。そこでは、「たくましく、しなやかな個」の自立という理想が語られるとともに、「結果の平等」を個の自立を阻害する要因として、このように述べられている。 「「結果の平等」ばかりを問い、縦割り組織、横並び意識の中で、″出る杭″は打たれ続けてきた」 この「21世紀日本の構想」懇談会の報告書の記述のなかで、「結果の平等」について″縦割り組織″や″横並び意識″といった、個人の能力の発揮を阻むような言葉が並んでいるように、「結果の平等」は、悪平等を助長させる忌まわしき概念として認識されている。それは、おそらく、冒頭のあたりで私が説明したように、「結果の平等」という概念が、すべての個人を同じように処遇するという意味で捉えられているのが要因であろう。今日の「結果の平等」から「機会の平等」への移行は、「結果の平等」に対するそのような認識が大きな働きかけとなっているのかもしれない。 先ほど、私は「結果の平等」が、すべての個人を同じような待遇にするという概念として認識されていると述べた。東京大学の苅谷剛彦氏(注1)によれば、「結果の平等」のルーツは、1965年頃のアメリカで、ときのアメリカ大統領ジョンソンが行った、「諸権利の達成のために」と題した演説に求められるという。ジョンソンの演説「諸権利の達成のために」で登場する「結果の平等」は、日本で認識されているような、縦割りや横並びといった言葉を連想させる「結果の平等」とは、異なる考え方として扱われている。 苅谷氏によると、1965年6月4日に、ときのアメリカ大統領ジョンソンは、前年の黒人差別の撤廃を目指した公民権法の成立を受け、黒人の名門ハワード大学で、「諸権利の達成のために」と題した演説を行ったという。そこで、ジョンソンは、「貧困との闘い」のいっそうの強化を提唱したとともに、新たな平等の概念として「結果の平等」をはじめて提示したといわれる。 「長年にわたり、鎖につながれてきた人を解放し、競争のスタートラインに立たせ、「さあ、あなたは自由に他の人たちと競争ができる」と言い、それだけで自分は完全にフェアであると正しく信じようとするなどとすることはできない。機会の門戸を開くだけでは不十分である。われわれすべての市民は、この門戸を通り抜けるにたる能力を持たなければならない。これこそが、公民権のための闘いの、次なる、そしてより深遠な段階である。われわれは自由だけではなく機会を求める―たんなる法的な公正ではなく、人間的な能力を―、たんなる権利としての、理論としての平等ではなく、事実としての、結果としての平等を求めるのである」 黒人を同じ「競争のスタートライン」に立たせるだけでは、過去から蓄積された差別や貧困などのハンディを取り除くことにはならないのである。「機会の平等」だけでは不十分なのだ。これに続く以下の記述の部分では、公平な競争を可能にする条件の整備として、「結果の平等」に能力の発達の機会を保証しようという考え方が含まれている。 「2000万もの黒人たちに、多くのアメリカ人と同じように、学び、成長し、働き、社会の一員となり、個人の幸福を追求することのできる能力を―肉体的にも精神的にも―伸ばすチャンスを与えることが課題である」 個々人の能力は、必ずしも生得的に決定されるものではない。一人ひとりの能力は、どのような家族と生活をともに送るか、どのような地域に住んでいるか、どのような学校で教育を受けているか、といったような環境の豊かさや貧しさによって、能力が伸長されたり、発達を妨げられたりする。やはり、「機会の平等」を創出するだけでは、十分ではないのである。 すべての個人を同じ「競争のスタートライン」に立たせるという、「機会の平等」だけでは、歴史的に累積された黒人の差別や貧困などのハンディは、克服できないのである。「機会の平等」を健全に機能させるためには、黒人が白人と公平で対等に競争できるだけの能力が育てられなければならないのである。それには、生まれや地域など環境の違いによって生じるハンディを克服する必要性が求められる。ジョンソンの演説「諸権利の達成のために」における、「結果の平等」は、そのような考えから生み出された平等主義なのである。この演説の「結果の平等」とは、公平で対等な競争を可能にする条件を創出するために、生まれや地域など環境によって生じる、一人ひとりの能力の格差を排して、すべての個人に能力の発達の機会を保証しようという概念であるといえる。それが、新たな平等の概念として、ジョンソンの演説「諸権利の達成のために」ではじめて提示された、「結果の平等」である。明らかに、「21世紀日本の構想」懇談会の報告書でみられるような、日本で認識されている「結果の平等」とは、異なっている。 実際、ジョンソンの演説が行われた後、学校入学以前に教育上の文化的なハンディを克服しようと試みた、ヘッドスターと呼ばれる補償教育や、マイノリティーに一定数の仕事や大学入学を設けたアファーマティブ・アクションと呼ばれる「結果の平等」政策が具体化していったという。 ジョンソンの演説における「結果の平等」は、「機会の平等」と対立しているのではなく、緊密に結びついているという点にも着目するべきであろう。現在、日本では、「結果の平等」から「機会の平等」への方向転換が試みられている。その動向は、「21世紀日本の構想」懇談会の報告書や、「再チャレンジ支援総合プラン」から窺われるだろう。現在の日本における、「結果の平等」から「機会の平等」へと向かう動きは、「結果の平等」と「機会の平等」という二つの平等主義を異なった概念として分け、対立させているといえる。昨今の日本での、平等に対する考え方の転換が、「結果の平等」か「機会の平等」か、という二者択一的な選択の判断をもとに行われているのかもしれない。 ジョンソンの演説「諸権利の達成のために」から、どのような平等が望ましいかと考える場合、先ほどのような、「結果の平等」と「機会の平等」とを分けて、二つの平等主義を異なった概念として対立させるのは、必ずしも適切とはいえないだろう。生まれや生活環境が違う、すべての諸個人を同じ「競争のスタートライン」に立たせたうえで、所得や地位、名誉など社会的な成功を競争によって獲得させるのであれば、「機会の平等」だけでは、不十分であろう。やはり、生まれや地域など環境によって生じる、一人ひとりの能力の格差を排して、すべての個人に能力の発達の機会を保証する「結果の平等」が伴はなければならないのである。 過去から蓄積された差別や貧困などのハンディを持つ黒人が、白人と同じスタートラインに立って、自らの努力や才能の発揮により、社会で白人と同等の待遇を受けるようにするには、「機会の平等」だけでなく、生まれや地域など環境的な不平等を撤廃して、白人と対等に競争できる能力の発達を保証する、「結果の平等」も成立させる必要があった。つまり、「機会の平等」を公平に機能させるには、「結果の平等」が必要不可欠なのだ。そのように考えると、「結果の平等」と「機会の平等」とを分けて、二つの平等主義を異なった概念として対立させるのは、適切ではないだろう。また、「結果の平等」から「機会の平等」へと向かう動きは、決して妥当であるとはいえない。
●機会が平等か、不平等かを判断する難しさ
現在、「機会の平等」に関心が集まるようになったのは、東京大学の佐藤俊樹氏が、00年に出版した『不平等社会日本』(中公新書 2000)のなかで、世代間移動におけるエリート層の固定化を、近年の社会移動上の問題として論じたことが、きっかけであるといわれる。 佐藤氏がその著書において、エリート層の閉塞化を論じた後、どのような平等が望ましいかを考察するうえで、「機会の平等」の達成が格差論争の重要なテーマとなった。格差社会に否定的な論者は、佐藤氏が示した現代の日本社会における機会の不平等を根拠に、格差社会を批判するようになった。他方、格差社会を容認する側は、「機会の平等が成立したうえでの格差は、認められなければならない」という論理を作り出し、そのような論理のもとで議論を展開し始める。 佐藤氏は『不平等社会日本』で、「社会階層と社会移動全国調査」(以下では、略称であるSSM調査と呼ぶ)を扱った分析から、近年、エリート層(ホワイトカラー雇用上層)の固定化が急速に進み、エリート層の出身者でなければ、エリートになれないという傾向が強まっていると述べている。つまり、社会移動における「機会の平等」が失われているというのである 佐藤氏によれば、SSM調査は、1955年以来、10年おきに日本全国の20〜69歳の人を対象に調査を行い、その職業キャリア、学歴、社会的地位、さらには対象者本人の両親の職業や学歴など、階層に関わる様々なデータを集めているという。佐藤氏のSSM調査における分析の特徴は、世代間移動の到達点を本人40歳時点の職業とし、SSM調査のなかから、40代から50代のサンプルを取り出して、父主職と本人40歳時点の世代間移動を調べているところである。なぜ、本人の40歳時点の職業を世代間移動の到達点とするかについて、佐藤氏は、40代は、20代や50代以降に比べて、転職が少ないからだという。 佐藤氏によると、戦後の高度経済成長の流れに沿って、1926年〜45年生まれの「昭和ヒトケタ」世代まで、ホワイトカラー雇用上層の開放性は拡大していたが、1936年〜55年生まれ以降の「団塊の世代」から、エリート層の閉鎖化が強まったという。つまり、エリートであるホワイトカラー雇用上層の父から子どもへの世代間の階層再生産傾向が、1955年から85年にかけて減少した後、95年に急上昇したというのである。 佐藤氏は、このSSM調査の分析のなかで、社会移動の開放性を測るのに、オッズ比や開放性係数などといった、開放性を示す指標を扱って、近年の世代間移動におけるエリート層の固定化を示している。 オッズ比とは、親がある職業についていたかどうかで本人(=子ども)がその職業につきやすいかどうかを測るもので、親の職業による影響がない場合は1で、子どもが親と同じ職業になりやすい場合、1より大きくなる。1よりどれだけ大きいかが、親の職業の継承性の度合いを示す。 開放性係数は、ある職業が親においてよりも本人のほうが多い場合、親がその職業である人のうち、どれくらいが別の職業についたか、で測る。また、逆にある職業が親よりも本人においてのほうが少ない場合、本人がその職業である人のうち、どれくらいが親はちがう職業だったか、で測る。開放性係数は、完全に開放的な場合には、1になる。閉鎖性が強まるほど数値は、小さくなり、最も閉鎖的な場合は0になる。 佐藤氏のSSM調査の分析では、ホワイトカラー雇用上層のオッズ比は、「明治のしっぽ」世代の9.4から、「昭和ヒトケタ」世代では、4近くまで低下しているが、「団塊の世代」になると、オッズ比は7.9まで反転上昇し、戦前の水準に回帰している。ホワイトカラー雇用上層における開放数係数も、閉塞していた「明治のしっぽ」世代から「昭和ヒトケタ」世代にかけて、順調に上昇していたが、やはり「団塊の世代」なると、下降している。開放性係数からみても、エリート層の閉鎖化は、「団塊の世代」から強まっている。 佐藤氏のこのようなSSM調査の分析に対して、東京大学教授の盛山和夫氏は、「中流崩壊は「物語」にすぎない」のなかで否定的な見解を示している。佐藤氏が行ったSSM調査の分析は、40歳時点の職業で階層所属を判断するなど独特で、盛山氏によれば、これ以外の階層区分を用いた場合、必ずしも同じ結果が得られるとは限らないという。盛山氏は、佐藤氏と同じ階層カテゴリーを含めて、4種類の階層区分を新たに作成し、上層ホワイトカラーの閉鎖化が、他のカテゴリーを用いた場合でも認められるかどうかを検証した。 盛山氏が用いた4種類の階層区分は、「40歳時点のホワイトカラー雇用上層」・「現職のホワイトカラー雇用上層」・「40歳時点の専門大ホワイトカラー」・「現職の専門大ホワイトカラー」で、サンプルを佐藤氏の分析と同じく40代、50代に限定し、閉鎖性の指標もオッズ比とした。 盛山氏がこのような方法で分析したところ、95年にオッズ比が急上昇しているのは、「40歳時点のホワイトカラー雇用上層」だけだった。そのほかのカテゴリーのオッズ比は、95年において低下し続けていた。 なぜ、このような結果になったのか、それについて盛山氏は、原因を次のように二点ほど挙げている。第一の原因は、階層区分や本人職の測定時点が異なるということである。二つ目に原因として挙げられるのは、サンプル数の少なさであるという。盛山氏によれば、SSM調査データ全体としては十分なサンプル数があるものの、年齢を限定して特殊な分析をしようとすれば、極端に少なくなってしまうという。40歳時点の職が分かっていて、しかも父親の階層がホワイトカラー雇用上層である40代、50代のサンプルは、85年で68名、95年では42名にすぎないというのである。 盛山氏は、このように佐藤氏のSSM調査の分析を検証した結果、SSM調査データから「機会の平等」が保たれているかどうかを判断するのは難しいと結論した。 武蔵大学の橋本健二氏(注2)も、佐藤氏が『不平等社会日本』でいうように、近年、エリート層の固定化が強まっているかどうか、SSM調査と、SSM調査と同様に社会移動や階層に関するデータを集めた、JGSS調査を用いて検証している。橋本氏は、85年および95年のSSM調査データと、02年および03年のJGSS調査データを用いて、男女込みの世代間移動表を作成した。その世代間移動表で扱われた階層カテゴリーは、「資本家階級」・「新中間階級」・「労働者階級」・「旧中間階級」である。 橋本氏は、従業員規模5人以上の経営者・役員・自営業者・家族従業者などを「資本家階級」とし、従業員規模5人未満の経営者や役員、自営業者などは、「旧中間階級」に含めている。「新中間階級」は、専門・管理・事務職に従事する被雇用者であり、それ以外の業務に従事する被雇用者は「労働者階級」としている。 なお、橋本氏は、閉鎖性を示す指標として、佐藤氏と同様にオッズ比と開放性係数を扱い、サンプルは35歳から44歳までを使用している。全年齢による移動指標は、全体開放性係数にのみ示したという。 橋本氏が作成した世代間移動表のオッズ比をみると、「資本家階級」は、95年からオッズ比が急上昇し、その後やや弱まっているが、02年〜03年においても依然としてオッズ比は高い数値を保っている。「新中間階級」のオッズ比は、一貫して低下し続けている。「労働者階級」と「旧中間階級」のオッズ比は、不規則な変化を示しているが、常に低い数値を維持している。以上のような、全階層カテゴリーのオッズ比の変化を踏まえたうえで、全体開放性係数に視点を移すと、全体開放性係数は、95年から02―03年にかけて増加している。つまり、階級構造は全体として開放性を高めていたのである。 この橋本氏が作成した世代間移動表は、先ほどの盛山氏の検証と同様に、佐藤氏が『不平等社会日本』で論じた、エリート層の閉鎖性は、佐藤氏の40歳時点の職業で階層所属を判断する分析手法でしかあらわれないということを証明しているといえる。佐藤氏がいう、エリート層の固定化というのは、佐藤氏が行った、40歳時点の職業で階層所属を判断する分析以外の手法では、示せないのである。 橋本氏は、盛山氏と同じく、「機会の平等」が健全に機能しているかどうかを判断するのは難しいと述べる。それは、階層区分の仕方や指標の扱い方によって、結論が食い違うだけでなく、社会調査そのものに問題があるのだという。橋本氏によれば、社会調査を通じて世代間移動を分析するためには、父親と本人についてプライバシー問題をはらんだ詳細な情報を集めなければならないため、調査の規模がどうしても制約されるという。回答者の数は、せいぜい数千人ならしく、年齢層を限って集計すると、実際に算出の基礎となるのは数百人、さらに特定のエリート層や資本家階級などを抜き出せば、数十人になってしまうのだという。 以上の盛山氏と橋本氏の、佐藤氏のいうエリート層の閉鎖化に対する検証をみると、「機会の平等」が維持されているかどうかを判断するのは、困難であるといえる。また、機会が平等か、不平等かを決定するのも難しいといえるだろう。佐藤氏が『不平等社会日本』で論じた、社会移動上における「機会の平等」の喪失を、格差拡大の根拠に求めて、格差社会を批判するのは、決して有効的ではないだろう。まして、「機会の平等が成立したうえでの、格差は認められるべきだ」とする、格差社会を容認する側の意見も、「機会の平等」が維持されているかどうかの判断が難しい以上、有効性は皆無であるといえる。格差社会を容認する識者の多くは、「結果の平等」から「機会の平等」への方向転換を掲げているように、「結果の平等」を蔑ろにしている。先に述べたとおり、「機会の平等」が健全に機能するには、「結果の平等」が不可欠である。そのような観点が欠如したうえで成立した、格差社会を容認する側の「機会の平等が成立したうえでの、格差は認められるべきだ」という論理は、空念仏に近いであろう。 「機会の平等」が保たれているか、もしくは「結果の平等」から「機会の平等」への方向転換というような、「機会の平等」の是非を問う議論は、判断するのが困難である以上、無意味なのではないか。
●「機会の平等が成立したうえでの、格差は認められるべきだ」という論理が醸す、ある幻想
06年2月26日に放送された「サンデープロジェクト」(注3)で、出演していた竹中平蔵元総務相は、「弱肉強食の格差社会ができている」という指摘に対して、このように説明していたという。 「小泉改革は、みんなが挑戦できるように、格差が広がらないように、機会の平等を確保した。そのためには規制の撤廃が必要だった。また、一度失敗しても再挑戦できるようにした」 「構造改革をもっともっと強化することこそが、機会の平等を保証して、再挑戦を可能にして、格差を生まないようにしていく最大の方法だと思いますよ」 竹中氏は、「機会の平等」が達成され、誰でも挑戦を繰り返すことができれば、いつかは必ず格差がない平等な社会が成立するとでも、本気で考えているのだろうか。よく格差社会に否定的な識者が格差を批判すると、格差社会を是認する新自由主義者や財界人、政治家たちは、決まってこのように述べ、一蹴する。「資本主義だから、格差は当然である」とか、「すべての人間が平等であるはずはない、そのような社会はユートピアだ」というように。しかし、竹中氏の言説のほうが、はるかにユートピアではないか。どのような人間でも、挑戦さえ繰り返せば、いつかは必ず格差がない平等な社会が成立すると竹中氏は考えているらしいのであるから。 竹中氏のこのような考えの背景には、すべての個人は才能や努力などの発揮によって必ず成功を得るだろうという、ある幻想が竹中氏の観念に覆い被さっているのではないだろうか。これは、竹中氏に限ったことではない、格差社会を容認する新自由主義者や財界人、政治家たちにもみられる傾向である。彼らが、「結果の平等」を「悪平等だ」と非難し、「結果の平等」から「機会の平等」への方向転換を訴えているところをみると、彼らは竹中氏と同じような幻想を無意識のうちに抱いてしまっているのかもしれない。だからこそ、彼らは、「機会の平等が成立したうえでの、格差は認められるべきだ」などというのであろう。 規制が撤廃された市場経済では、競争のスタートラインに立つのは、強大な資本の大企業ばかりでない。大企業と比べて資本規模が劣る中小・零細企業も大企業と同じスタートラインに立って、競争しなければならない。そのような環境のなかで、中小・零細企業が資本規模に優る大企業と必ずしも対等に競争できるとは限らない。ましてや、規制が取り払われた自由競争では中小・零細企業は大企業に対して圧倒的に不利である。そのような自由競争の論理を社会に適用すれば、ほんの一割の「勝ち組」と、九割の「負け組」との二極化格差社会に陥らざる得ない。今まで中流で、起業をする気概や才能はないものの自分の仕事を真面目にコツコツと行う者まで、下層に落ちるのは、目にみえている。それは、才能や努力の欠如といった短絡的な理由では説明できない。純粋な競争原理が働いているスポーツや芸能界をみれば、一目瞭然であろう。 たとえば、欧州のサッカーでは、世界屈指の実力を持つ選手であっても、控え要員として、ベンチであたためているのは、決して珍しくない。「魔法の左足」と称賛されている、ウルグアイ代表FWのレコバでさえ、所属クラブのインテルでは、ほとんどサブにまわって、ベンチであたためている。芸能界をみれば、歌手の世界に限っていうと、歌が上手くても売れない歌手はゴマンといる。その一方で、歌はさほど上手くなくても偶然時流に乗ってブレイクする歌手が存在する。 競争社会では、努力や実力によって、それに応じた見返りが得られるのではないか、と思われがちだが、それ以外の要素も必要だったりする。それは運であったり、人脈であったりするだろう。必ずしも、格差社会を肯定する新自由主義者や財界人、政治家たちが吹聴するように、「才能や努力が報われる」社会とは限らないのだ。しょせん、「結果の平等」より「機会の平等」を優先しようという考え方そのものが、世間知らずで青臭いインテリや上層階級の連中によって、机の上で練り上げられた論理にすぎないのであろう。 格差社会を容認する新自由主義者や財界人、政治家たちの、「個人の才能や努力によって、格差が開くのは、当然である」というような台詞を、よく耳にする。それは、国民に強者が弱者を支配するのが当たり前であるから、優勝劣敗の弱肉強食の社会を受け入れろ、という意味なのか。仮にそうだとすれば、彼らがいう社会は、文明ではなく、あらゆる生物が生き残りを賭けて競い合う自然界に等しいではないか。格差社会を容認する新自由主義者や財界人、政治家たちが言わんとするのは、我々が野生に戻らなければならないということなのか。優勝劣敗の弱肉強食の論理を社会に適用し、認めるとすれば、近代人が追求して自由や平等といった理想さえも否定されかねないのではないか。もっとも、現在、「勝ち組」に属し、庶民より有利な地位にいて、胡坐をかいてのぼせあがっている新自由主義的な学者や企業家、政治家たちに、「格差があって、当たり前だ」などと戯言をほざく資格はない。 規制を排した、市場原理による競争社会を志向するならば、競争に敗れてしまうような弱者をどのように保護するか、もしくは、今まで中流で、起業をする気概や才能はないものの自分の仕事を真面目にコツコツと行う者たちの安定した生活が、今後、どうすれば維持されるのか、というような議論がなされなければならないだろう。「勝ち組」になれるのは、ほんの一割で、ほとんどが「負け組」に転落してしまうのであるから。そうした議論が蔑ろにされたまま、「機会の平等」の達成や、「結果の平等」から「機会の平等」への方向転換といった論法で、格差社会を議論するのは、欺瞞ではないか。仮にそれらを目指すのであれば、「機会の平等」を健全に機能させるために、「結果の平等」をどのように保障するかを考察しなければならないだろう。 市場原理による自由競争の社会で、不利な地位に立たされる庶民に必要なのは、「再チャレンジ」という言葉で糊塗されたギャンブルの機会ではない、どうすれば、安定した生活が維持できるのか、そのための方策である。 格差問題をどのように是正するか、望ましい平等について議論を行う場合、「機会の平等」を判断する難しさを理解せず、「結果の平等」の見直しを放棄したまま、どのように「機会の平等」を創出するかや、「結果の平等」から「機会の平等」への方向転換など、といった論を展開してはならないだろう。「機会の平等」を判断する困難に対する理解や、「結果の平等」の見直しを欠いたままで、「機会の平等」という概念について、議論を展開し、「機会の平等が成立したうえでの、格差は認められるべきだ」というような答えを導き出すのは、安易である。格差問題を考察するうえで、どのような平等が望ましいかという議論を行うとすれば、「結果の平等」という概念を再評価し、「機会の平等」が維持されているかどうかの判断が、困難であるという点をよく理解しなければならない。そうしたうえで、「機会の平等」を効果的に機能させるためには、「結果の平等」をどのように保障するかということを考えなければならないだろう。
(注1)苅谷剛彦『階層化日本と教育危機−不平等再生産から意欲格差社会へ』(有言堂光文社 2001)・「中央公論」編集部『論争・中流社会』(中公新書ラクレ 2001)苅谷剛彦「「中流崩壊」に手を貸す教育改革」
(注2)橋本健二『階級社会−現代日本の格差を問う』(講談社新書メチエ 2006)
(注3)小林よしのり責任編集『わしズム Vol.18 2006春』(小学館 2006)海原よいしょ「テレビ御意見拝聴」
◆参考文献 ・苅谷剛彦『階層化日本と教育危機−不平等再生産から意欲格差社会へ』(有言堂光文社 2001) ・佐藤俊樹『不平等社会日本−さようなら総中流』(中公新書 2000) ・「中央公論」編集部『論争・中流社会』(中公新書ラクレ 2001) ・橋本健二『階級社会−現代日本の格差を問う』(講談社新書メチエ 2006)
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| (2007.1.21[Sun]) |
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| 「格差社会に断固、徹底抗戦―俺はぶっ殺されるまで戦うぞ!!」 ■序章−・知識人たちよ、格差の背景に経済のグローバル化があると説くのなら、同時に社会保障のグローバル化も議論せよ!! 経済のグローバル化を根拠に、「格差の拡大は仕方がない」とほざくのは、知識人の知的怠慢いや、知的堕落である。 |
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現在、問題となっている格差の拡大の背景には、経済のグローバル化が挙げられるという。それは、市場経済の国境を越えた拡大で、世界規模に渡る企業の経済活動である。経済のグローバル化が進むにすれ、先進国の間だけでなく、発展途上国との激しい価格競争が余儀なくされ、近年、日本を含む先進国企業のなかで、人件費の縮小を中心にコスト削減の圧力が強まっているといわれている。
経済のグローバル化の煽りを受け、現在、日本企業は安価な中国や東南アジア諸国の製品と激しい国際競争を余儀なくされ、輸出製品の価格を引き下げなければならない事態に陥っている。と同時に日本企業では、激化する国際競争で生き残るために、人件費縮減の圧力が高まっており、安価で雇用を柔軟に調整できる派遣やパート・アルバイトなどの非正社員の比率が増大している。 新自由主義者や格差拡大を肯定する知識人たちは、それを根拠に、所得をはじめとする格差の拡大は必然である、と淡々と述べる。それは、まるで派遣やパート・アルバイトなどの非正社員の増加や所得格差の拡大は、経済のグローバル化という時代の変化や要請によって、宿命的に引き起こされたのだから、仕方がないと言わんばかりである。先進国のほとんどでは、グローバル経済競争によって所得格差が拡大しているようで、フリーターや派遣社員などのような非正社員は増大しているという。 『ニュースウィーク 7月5日号』(ニュースウィーク社 2006)によれば、ヨーロッパの国々では、正規社員に比べて解雇しやすく、社会保障コストが大幅に抑制できる短期雇用社員が、労働法制の段階的な緩和によって増加しているという。フランス、ドイツ、イタリアでは、短期雇用社員が全労働者の12%を占めているといわれる。世界最大の人材サービス企業マンパワーは、フランス国内だけで約1000ヵ所の事業所を展開しており、年間の売り上げは162億ドルで、その4分の1以上をフランスで稼ぎ出している。また、所得の格差の増大は、福祉国家で知られる北欧諸国でも90年代から進展しているという。日本に限らず先進国で共通に格差が拡大しており、その要因として経済のグローバル化による国際競争の激化が大きいようだ。格差の拡大は、新自由主義者やそれに追随する知識人がいうように、時代の変化や要請でもたらされた現象として捉えるのであれば、格差の拡大は必然的に起こった、と認めるしかないだろう。 そのように、所得をはじめとする格差の拡大を、経済のグローバル化が進展する現在の時流による仕方のない運命であると、知識人たちが何も提案をせず、ひたすら、庶民に諦めを促すのであれば、それは、知識人の知的怠慢いや、知的堕落としかいいようがないだろう。現在、起こっている格差の拡大を経済のグローバル化が要因であると述べるのであれば、それにどう対応すべきか、知識人たちは庶民に方策を提供しなければならない。千葉大学の広井良典氏は『週刊 東洋経済 6月24日号』(東洋経済新報社 2006)のなかで、「グローバルレベルの社会保障」という観念について述べている。広井氏によれば、「グローバルレベル社会保障」とは、経済のグローバル化から生じた格差や貧困を是正するために超国家的機関によって行われる再分配システムのことであるという。そのような動きは、06年7月にフランス政府が導入した航空券税にみられ、フランス発便の航空券に税を課し、その税収を途上国への医薬品援助などに充てるという。グローバルレベルの再分配システムをどのように設計するか、06年5月に日本においてもNGOのオルタモンド等の主催により、「新しい開発資金メカニズムを考える」と題するセミナーが開催され、フランス、イギリス、ブラジル、日本の政府関係者等の参加の下で活発な議論が行われたという。 近年、日本においてグローバル経済競争の影響で、長時間・過密労働が広がっているという指摘がある。経済のグローバル化が労働環境を悪化させているのだとすれば、今後、労働者保護を考える上で、ILO(国際労働機関)が99年の総会で提唱した「ディーセントワーク」(decent work=適正な仕事)を重視しなければならないだろう。「ディーセントワーク」とは、金沢大学の伍賀一道氏(注1)によると、「権利が保護され、充分な収入を生み出し、適切な社会保護が与えられる生産的な仕事」を意味するという。伍賀氏は、現在、経済のグローバル化による国際競争が激化するなかで、接続可能な働き方や働かせ方を目指すには、国際的な視点に立って労働基準の確立を図ることが不可欠であるとし、日本で「ディーセントワーク」の実現が必要であるという。 所得をはじめとする格差の拡大や労働環境の悪化などが、経済のグローバル化によってもたらされたのであれば、「グローバルレベル社会保障」や「ディーセントワーク」などのような国際的な視野に立って、知識人たちは、どのように、格差の拡大や労働環境の悪化などの問題を解消するべきか、考察や議論を行わなければならないだろう。知識人たちが、そのような考察や議論を怠って、経済格差の拡大を時代の変化や要請によって引き起こされた仕方のない事態であると容認するとしたら、それは知識人たちの知的堕落である。 また、現在、発生している経済格差の拡大は、グローバル経済競争のほかに、産業構造の転換も原因であるとする声が、多くの知識人たちのなかから挙がっている。産業構造の転換とは、主に今までのモノを生産して、売るという産業から情報やサービス、知識、文化を市場に提供する経済への変化を指しているといわれる。そうした新しい産業構造の下では、労働者は、アイディアなど創造性を必要とする中核的で専門的な労働者と、熟練が不要な単純労働者とに分化させられ、創造性を有する専門的労働者と、生産性が低くマニュアル通りに動くしかない単純労働者との間では、収入の格差が生じざる得ないのだという。やはり、格差の拡大の要因を産業構造の転換であるとする意見も、経済のグローバル化が格差を広げたという見解と同様に、時流の変化であるから仕方がないという結論に行き着くしかない。 そのような知識人の態度も知的堕落であるとしかいいようがない。経済のグローバル化や産業構造の変化によって、今後、ホワイトカラーになれる人間は限定され、大多数の人間は、生産性が低い単純労働者に陥るだろうといわれる。低収入の単純労働者は増加すれば、国民全体の購買意欲が停滞し、景気の上昇が難しくなるだろう。また、収入が低い労働者が多数派になれば、経済が停滞するだけでなく、少子化も加速されるかもしれない。であれば、雇用制度をどのように改善するべきか、または人的資源の質を高めるために、どのように政府主導で教育サービスや福祉サービスなど、対人サービスの強化を行うべきか、知識人たちは、それらの考察や議論を怠ってはならないだろう。私は別の機会で、どのように産業構造の転換に対応するべきか、論じることにする。 経済のグローバル化や産業構造の変化などを格差拡大の原因として論じる際、私が怖いと思えるのは、それらの要因で格差が広がるなか、労働者の地位や所得をどのように保護するのかといった議論が蔑ろにされたまま、「仕方がない」や「やむ得ない」といった調子で議論が展開してしまうことである。 現在、発生している格差の拡大は、主に、以上で述べたような経済のグローバル化や、経済のグローバル化と並行して挙げられる、既存の正社員の雇用や社会保障の維持が要因であるといわれる。しかし、日本と他の先進国の社会保険料の事業主による負担を比較すると、必ずしも、それらの要因は日本には、該当しないのではないかという疑問が生じる。OECDが30ヵ国を対象に行った調査によれば、04年度の日本における社会保険料の事業主の負担の割合は11.1%である。他方、フランスは28.2%、イタリアは24.9%、スウェーデンは24.6%であり、ドイツは17.3%である。日本の事業主による社会保険料の負担は、それらの国々と比べて低く、メンバー30ヵ国のなかで11番目に事業主の社会保険料の負担は低いという。また、甲南大学の熊沢誠氏(注2)によると、残業手当の割増率が未だ25%であるという国は、日本とインドだけで、ほとんどの国々では、割増率が50%程度であるという。
日本では、非正社員の増加など、所得をはじめとする格差の拡大の要因が、経済のグローバル化や既存の正社員の雇用や社会保障の維持などに求められるが、先ほどのOECDの調査をみると、日本の企業は、フランスやドイツなど欧州の企業より国際競争では、有利な立場で経済活動を展開しているのではないかと思われる。グローバル経済が進展するなか、激化する国際競争で、経済活動を行わなければならない負担は、日本の企業よりも事業主による社会保険料の負担の割合が高い欧州の企業のほうが大きいはず。また、経済のグローバル化とともに、格差の拡大の要因であるとされる既存の正社員の雇用や社会保障の維持なども、先のOECDの調査や残業手当の割増率の大きさから考えると、欧州の企業のほうが、はるかに手厚いのではないかと思われる。 フランスやドイツなど、欧州の国々では経済のグローバル化の進展で、安価で雇用の調整が柔軟な非正社員が日本と同様に増加しているが、事業主の社会保険料の負担や残業手当の割増率の大きさから考えると、国際競争を展開するうえで、欧州の企業は、日本の企業よりも厳しい立場を余儀なくされるのではないか。 所得をはじめとする格差の拡大の原因は、経済のグローバル化や、既存の正社員の雇用や社会保障の維持などであるとする、そのような宿命論的な見解は、一面的には妥当であるかもしれない。しかし、欧州の先進国の企業と比較して、日本の企業の事業主の社会保険料の負担や残業手当の割増率が低いというところをみると、必ずしも格差拡大の要因を、経済のグローバル化や、既存の正社員の雇用や社会保障の維持などに求めることは、適切ではないのではないか。日本の企業の事業主による社会保険料の負担や、残業手当の割増率の低さ、また、前回の「「景気回復で格差問題は解消される」という言説の欺瞞」で私が述べた、労働分配率や従業員の給与の減少などから考えると、企業側にも格差の拡大を助長させている責任があるのではないか。今後、格差の解消を議論するうえで、経済のグローバル化に対応するため、どのような雇用制度のあり方が望ましいなどという議論のほかに、雇用側の労働者に対する意識や姿勢をどのように改革するかという議論も必要とされるべきではないのか。知的エリートであるらしい知識人と名乗る方々には、ぜひ、企業の労働者に対する意識や姿勢をどのように改革すれば良いか、活発に議論していただきたいものだ。そして、知識人の方々は、くれぐれも、現在の所得をはじめとする格差の拡大は、経済のグローバル化が進む今日の時流による現象であるから、「仕方がない」などとしたり顔で説かないでいただきたい。
(注1)『週刊 エコノミスト 7月25日』(毎日新聞社 2006) 「規制緩和という強まる″使い捨て″労働の流れ」
(注2)内橋克人編『経済学は誰のためにあるのか 市場原理至上主義批判』(岩波書店 1997)
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| (2007.1.20[Sat]) |
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| 「格差社会に断固、徹底抗戦―俺はぶっ殺されるまで戦うぞ!!」 ■序章−・「景気回復で格差問題は解消される」という言説の欺瞞 |
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一般に政治家や財界人、知識人たちは景気が回復すれば、現在、問題となっている格差の拡大は必然的に解消されるだろうと庶民に説いている。私を含む庶民たちもまた、そのような言説を充分に吟味することなく、景気の回復が経済的な要因から生まれた、今ある様々な格差を是正してくれるだろうと信じ、一刻も早く日本経済が長いデフレスパイラルから脱け出すことを願ってやまない。景気回復がどのように格差問題を解決するのか、その具体的なイメージが欠如しているにもかかわらず、巷では「景気回復で格差問題は解消される」という言説が根強く浸透し、それに対して大きな期待が寄せられる。やはり、景気が回復すれば、所得も回復するだろうという見込みがあるからだろう。上武大学教授の田中秀臣氏は、『SAPIO 11月23日号 世界の「上流社会」「下流社会」』(小学館 2005)のなかで景気が回復すれば、ニート問題が解消されると述べている。また、双日総合研究所副所長の吉崎達彦氏は、『週刊エコノミスト 4月25日号』(毎日新聞社 2006)で、「景気回復が浸透するにつれ、半年経ったらみんな「格差社会」なんて言葉は忘れてしまうのではないか」といっている。おそらく、ほとんどの人間は、この2人がいうようなイメージを共有しているのではないか。残念ながら、吉崎氏の見解は、9月26日に発足した安倍内閣の「再チャレンジ」政策(*1)で、フリーターの正社員化が志向されているところをみると、大ハズレとしか言い様がないだろう。景気回復についても内閣府が11月22日に公表した月例経済報告において、7〜9月期の個人消費の減少が判明し、近年、政府や日銀などが盛んに喧伝していた景気回復に対する疑念が生じている。 政財界やメディアで、「いざなぎ景気越え」や「戦後最長の好景気」だと謳われる一方、よく庶民の間では、「景気回復の実感がない」という声がしばしば聞かれる。吉崎氏は、それについて『諸君8月号』(文藝春秋 2006)のなかで、このように述べている。
「じつはアメリカでも90年代中盤の景気回復期、統計上は景気回復しているのにその実感はないとして「雇用なき景気回復」(ジョブレス・リカバリー)と盛んに指摘されたことがありました」 吉崎氏は、庶民がいう「実感なき景気回復」を、感覚的で当てにならないものであるとして、『諸君8月号』で否定している。しかし、景気の動向を考察する場合、庶民のそのような感覚を決して軽視してはいけないのではないか。作家の高杉良氏がいうように、誰しも将来的に安定した収入が得られると思えば、借金をして消費したり、資産を購入することに抵抗はないだろう。(注1)決して、感覚的で曖昧なものだからといって、庶民がいう「実感なき景気回復」を馬鹿にしてはならない。むしろ、そこに今回の景気回復の真実がみえてくるのではないか。 クレディ・スイス証券のチーフ・エコノミストである白川浩道氏によると、企業が付加価値をどの程度賃金に回したかを見る労働分配率は、02年の80%から大きく下落しており、06年6月には、75%まで落ち込んでいるという。(注2)白川氏は、今後、労働分配率は、向こう1〜2年は低水準で推移する可能性が高いと推測している。 また、三菱UFJリサーチ&コンサルティングの主任研究員の小林真一郎氏は、『週刊エコノミスト 11月7日号』(毎日新聞社 2006)で、残業代とボーナスが増加しているのにもかかわらず、月給(所定内給与)は06年度に入ったあたりから伸び悩んでいると指摘する。厚生労働省が毎月発表する「毎月勤務統計」(従業員規模5人以上)によると、所定内給与は今年5月から8月まで4ヶ月連続で前年の水準を下回っているという。 つまり、企業が従業員に利益を還元していないのだ。企業が儲けた所得を賃金水準の引き上げなどによって従業員に還元されてないといえる。庶民が景気回復を肌で実感できるのは、主に給与や賞与の上昇である。賃金が上がらなければ、庶民は景気の回復を感じることはできない。所得が増大しないかぎり庶民の間で、消費活動が活発に起こることはないだろう。決して、庶民が景気回復を感じられないのは、感覚的な錯誤ではない。当然の反応なのだ。 内閣府が11月22日に公表した月例経済報告のなかで、個人消費が減少した起因は、労働分配率や所定内給与の低下に求められるかもしれない。国内需要の伸び悩みは、総務省の家計調査でも示されている。総務省が12月1日に発表した10月の家計調査によると、全世帯(2人以上)の消費支出は、前年同月より2.4%減ったという。しかも、前年割れは10ヶ月連続である。やはり、家計調査でも月給の伸び悩みが指摘されている。 私は、少なくとも今回の景気回復で格差問題は是正されるとは、到底思えない。政財界やマスコミなどで持て囃される、今回の景気の回復自体に私は懐疑的なのだ。月例経済報告のなかで、個人消費が減少したのが、疑う理由の1つであるが、私が今回の景気回復を疑う最大の理由は、その景気回復の中身である。国内需要による景気回復とは、言い難いのだ。 山家悠紀夫氏によれば景気が回復の傾向に向かっているといわれた02年から04年までの間、雇用者報酬は減少しているという。(注3)02年では7兆円が減少し、03年には5兆円減、04年には1兆円減少している。他方で法人企業の所得は、02年から04年までの間、3年連続で増加しているという。山家氏は、雇用者報酬が減少した要因としてリストラによる正社員の減少や正社員から非正規雇用者への置き換えなどを挙げている。実際に、非正社員の比率は、「就業形態の多様化に関する総合実態調査」によれば、99年度では28%であったが、03年度において非正社員の比率は、38%まで増加している。その後も非正社員の割合は上昇している。つまり、近年、政財界やメディアで喧伝されている景気回復は、企業がリストラで正社員の数を減らし、低賃金の非正社員に置き換えて、人件費の負担を大幅に削ったところによるものが大きいといえる。(*2) 雇用者報酬や労働分配率が減少していた一方で、企業の設備投資が増加しているといわれる。実際に、景気は回復の傾向に向かっているといわれた02年から04年までの間、雇用者報酬や個人消費が伸び悩んでいるなか、企業の設備投資の伸び率は上昇しており、現在もその傾向が続いている。設備投資の伸び率の増加が02年から急激に上昇しているところをみると、後述する外需が要因であると思われる。どうやら、企業は儲けた収益の大半を従業員に還元しないで、設備投資に充てているようだ。企業の従業員に対する利益の還元の抑制は、主にリストラで正社員の数を減らして、低賃金の非正社員に置き換えることや正社員1人あたりの給与を減らすことで行われている。現在、政財界やメディアで吹聴される景気回復というのは、企業が人件費の負担を大幅に削ったところによるものが大きいといえる。 企業の人件費の削減とともに今回の景気回復を後押ししたのは、輸出の増加である。日本の輸出総額は、01年度は49兆円、02年度は52兆円、03年度は55兆円、04年度は61兆円であり、現在好調な産業は自動車や造船、鉄鋼など輸出産業が中心である。特に鉄鋼大手4社、新日本製鉄・JFEホールディングス・住友金属工業・神戸製鋼所は中国の急激な経済成長の恩恵により、06年3月期連結決算において、経常利益は過去最高であったという。
その一方で、輸出の増加率と国内需要の増加率を比べると、大きな差がみられる。山家悠紀夫氏は、『世界 3月号』(岩波書店 2006)で02年1〜3月期と05年7〜9月期の輸出の増加と国内需要の増加を比較し、その差を検証している。それによると、輸出は42%の増加であるのに対し、国内需要の増加は6.4%であるという。つまり、現在進行している景気回復は輸出が牽引しているといえる。景気を引っ張っているのが輸出であれば、景気は常に海外経済に左右されるところが大きいだろう。日本の輸出は主にアメリカと中国に集中し、日本の対アジア輸出全体の5%のうち、2割は中国向けである。
日本の輸出企業は中国の過剰投資バブルとアメリカの住宅バブルの恩恵に与っているが、5月に行われたFRB(米国連邦準備制度理事会)の利上げによって住宅バブルは頭打ちとなり、アメリカ国内の需要は停滞している。現にアメリカ政府は11月21日の発表において、国内総生産(GDP)の伸びが2.9%にとどまり、6月の前回の予測より0.4%幅低くなるとの経済見通しをしている。今後、日本における景気の展望は決して明るいとは限らないだろう。実際、05年10〜12月期をピークに日本の対外輸出は下降しており、それに連動して実質GDPも減少している。
政財界や、それに追随する知識人、メディアなどが喧伝する景気回復とは、私が以上で述べたように、国内需要が高まって起こった現象ではないだろう。国内需要の増大による景気の底上げには、まず企業が高い業績を伸ばした上で、得た収益のなかから従業員への分配を増大させなければならない。企業の従業員に対する収益の分配の増大とは、賞与や給与の上昇、または雇用の拡大を指すだろう。企業がそうすることで、家計の所得が増加し、消費活動が活発になり、景気が上昇していく。それが多くの人が思い描く景気回復ではないのか。労働分配率や雇用者報酬などの増減をみると、明らかに国内需要の拡大による景気回復ではない。今回の景気回復の牽引役となったのは、企業の人件費の大幅な削減と、中国の過剰投資バブルやアメリカの住宅バブルが呼び水となって引き起こされた外需である。今回の景気回復は、国内需要の高まりによる創出ではなく、リストラや非正社員の増加という、ある一定の多くの人々を犠牲にし、中国の過剰投資バブルやアメリカの住宅バブルなどといったような、たまたま起こった外需によって発生した現象である。
このような景気回復では、庶民の所得の増加や就労機会の増大などで格差が解消されるということはありえないだろう。企業が人件費への支出を抑えることで、正社員1人あたりの給与が減少しているばかりでなく、正社員数もリストラで減らされ、それに伴って低収入の非正社員が増加しているのだから。景気回復が外需と企業による人件費の大幅な抑制に支えているのであれば、格差問題など解消するわけがないだろう。景気回復のあり方が、このようなものであるにもかかわらず、「景気回復で格差問題は解消される」という言説を弄すのは、欺瞞ではないのか。そのような言説を振り回す政財界や新自由主義的な知識人、メディアなどは、庶民に何か幻想を見せたいのであろうか。 経済学に対してド素人の私がいうのも大変おこがましいが、国内需要を創出することで景気回復を志向するとすれば、庶民層に痛みを強いる構造改革をさらに推し進めるのではなく、ケインズ主義者たちがいうような財政支出の拡張や公共投資の拡大、減税などで国民の購買意欲を高めるのが望ましいと思う。
小泉政権が掲げた構造改革(*3)は、定義がはっきりしていないものの、サッチャリズムやレーガノミクスをモデルにして「小さな政府」を目指しているとみれば、主軸は規制緩和と歳出削減であると考えられるだろう。
小泉政権下で新自由主義者たちは、あらゆる業界に設けられた規制を緩和して業者間の競争を促進すれば経済が活発となり、長いデフレ不況から脱することができると説いた。周知のとおり、「失われた10年」といわれたバブル崩壊後の長期不況は、デフレが主な原因であろう。ちなみに昨年から日銀は、利上げを行いたいがために消費者物価指数の伸び率の上昇を根拠に「デフレ脱却」を吹聴していたが、8月に日銀が消費者物価指数の基準を5年ぶりに改定したところ、物価の変動が激しい生鮮食品を除いた7月の総合指数は前年同期比0.2%にとどまり、消費者物価指数が鈍化していたことが判明した。しかも、消費者物価指数の伸び率の大半を底上げしているのは、高騰している原油製品だという。デフレは、まだ終息していないと見たほうがいいかもしれない。
規制が撤廃され、業界内で競争が激しくなれば、モノの質やサービスが向上するだろう。しかし、それだけで激化する市場における競争で勝ち抜くのは難しい。やはり、モノやサービスの価格を下げなければならないだろう。安価で良質なモノやサービスが市場に供給されるのは、消費者にとって大変喜ばしいことかもしれない。しかし、企業はその負担をコスト削減で賄わなければならない。とすれば、そのしわ寄せは、設備投資や人件費の削減に来るだろう。人件費の削減は、もはや読者諸兄もわかっているとおり、正社員1人あたりの給与のカットやリストラによる正社員数の削減、それに伴う非正社員の増大などで行われる。そうなれば、家計の所得は減り、購買意欲がなくなるだろう。家計が財布のひもをきつく締めると、企業はモノやサービスの価格を下げ続けなければならなくなる。ますますデフレが深刻化するばかりである。また、自由競争による市場経済において、大企業に比べて資本規模が劣る中小・零細企業は圧倒的に不利な立場を余儀なくされる。そうしたなかで、市場間における競争が激しくなれば、生き残れる中小・零細企業はわずかで、その多くは倒産するか、大企業に呑み込まれるかであろう。それで失業者が増加すれば、デフレに拍車がかかるのは、目にみえている。結局、規制緩和はデフレ不況を脱するのに効果的ではないのである。
歳出削減は、主に公共事業を大幅にカットすることであり、地方の大半は公共事業に依存している。地方の多くでは、公共事業の削減で地元の建設業者の売上が減少し、不況に陥っているという。平成17年度(05)の一般会計予算の公共事業関係費は7兆5310億円で、前年度当初予算から3.6%減である。小泉政権が行った公共事業の削減により、著しく厳しい状況に置かれている都道府県は北海道で、北海道の平均失業率は5.3%であるといわれ、全国の平均的失業率の4.1%を上回る。有効求人倍率(パート及び非正規雇用社員も含まれているという指摘がある)は、小泉政権の4年間で東京は0.68倍から1.58倍に改善したが、北海道は0.47倍から0.66倍へと改善幅は、なお小さい。公共事業の削減も不況を脱するどころか、国民の生活を困窮させているのである。 経済学に関してド素人の私が経済政策について、あれこれ述べるのは、大変おこがましいが、私は構造改革をさらに推進するよりもケインズ主義者たちがいう、財政支出の拡張や公共投資の拡大、減税などで国民の需要を喚起させ、国内需要を高めることで景気を上昇させるのが望ましいと思う。現在、財政再建が議論されているなか、私がいう減税や財政支出の拡張、公共投資の拡大などの経済政策は、増税論者や歳出削減派からみると、倒錯しているようにしか思えないだろう。
しかし、先に私が述べたように規制改革や歳出削減は、デフレで国民の需要が低下しているなか、決して効果的な政策ではない。庶民層の所得が上昇せず、停滞しているままの状態で増税を行えば、一時的には税収が増え、財政は短期的に潤うかもしれない。しかし、庶民の間では所得の上昇や就労機会が増えないから、負担がますます増える。そうなれば、当然、国民全体の購買意欲が停滞するので景気はさらに悪化せざる得ない。不況で税収が滞れば、また増税を繰り返さなければならなくなるかもしれない。長い目でみると、増税は財政再建に決して有効ではない。話は脱線したが、歳出削減や増税は国民の需要が停滞しているなかでは効果的とはいえない。むしろ、庶民の所得が上がらず、就労機会も創出されないというのであれば、国民の負担を軽くするため、減税を行うべきで、「定率減税」や「特定扶養控除」、「配偶者控除」などは続けるべきである。
バブル崩壊後の長期不況を一般に「失われた十年」といわれているが、小渕政権の時代では財政支出の拡張や公共投資の増額、減税などの景気浮揚の政策が功を奏し、税収は50兆円台まで回復していた。しかし、小泉政権が緊縮財政を行ったことで、税収は約10兆円程度まで減少した。しかも、小泉政権の発足後、最初の2年間だけで税収は6兆円を越える減少だったといわれる。不況でデフレが進行しているなか、小泉政権は緊縮財政を行い、景気を悪化させ、所得税収及び法人税収、消費税収を大幅に減少させた。それが現在、問題となっている財政赤字に少なからず関わっているだろう。
新自由主義者たちは、よく「大きな政府」ではなく、「小さな政府」が経済に活力を与えるといって、公共投資の減額を推奨し、予算規模の縮小や削減を訴える。しかし、05〜06年平均の財政規模と実質成長率の関係(OECD報告)によれば、日本はスウェーデンなど北欧諸国と比べて政府支出が低く、むしろ、「小さな政府」である。日本の政府支出はGDP比37.9%で成長率は1.2%。一方、スウェーデンの政府支出はGDP比59.0%であり、日本に比べて「大きな政府」であるが、成長率は2.7%である。政府支出が日本より高いスウェーデンのほうが成長率は高いのである。日本では、政府支出というと、社会資本の整備などの公共事業の拡大が、真っ先に連想される。公共事業といえば、新自由主義者たちが批判するような族議員の「地元への利益誘導」という印象が非常に根強く、ネガティブなイメージばかりが定着している。実際、不必要な箱物施設の建設が計画され、非効率な部分が多く目に付いているのは確かである。
スウェーデンが日本以上に政府支出が高いのにもかかわらず、日本よりも高い経済成長を続けているのは、主に政府支出を教育サービスや福祉サービスなど、対人サービスを中心に分配しているのが大きいだろう。現に、スウェーデンは世界で高い教育水準を誇っており、その高い教育水準を背景に、従来の「ものづくり」から情報通信技術など知識集約産業に転換し、国際競争力を高めている。世界経済フォーラムの国際競争力ランキングでは、スウェーデンをはじめ、スカンジナビア5カ国すべてがベスト10入りしている。
日本では、政府支出というと、今まで社会資本の整備をはじめとする公共事業の割合が大きかったため、先ほど述べたように、非効率でムダな箱物施設という先入観が根強く定着している。しかし、スウェーデンや北欧諸国の例をみれば、必ずしも政府支出の多寡が経済成長を決定するとは限らない。スウェーデンや北欧諸国の経済成長をみて、考察しなければならないのは、どのように財政を有効に機能させるかである。スウェーデンを含む北欧諸国は、政府支出を教育サービスや福祉サービスなど、主に対人サービスを中心に分配することで、人的資源の質を向上させ、そのうえで知識集約産業に移行し、国際競争力を高めている。このようなスウェーデンや北欧諸国の財政活動をみて、我々が議論しなければならないのは、いかにして財政を有効に機能させるかであろう。単に「小さな政府」か「大きな政府」か、という二者択一的な論争に収束してはならないのだ。今後、公共投資の拡大を考察するうえで、どのようにして財政活動を効果的に運営するかという観点が重要とならなければならないだろう。
今後、日本は産業構造の軸を知識集約産業やサービス産業に移行するとすれば、人的資源の質を高めるために教育サービスや福祉サービスなど、対人サービスを中心に政府支出を拡大しなければならないだろう。現在の製造業主体のまま、日本が国際競争力を高めようとすれば、中国や東南アジア諸国との競争のなかで、国内の労働者の賃金コストを低くするしかない。そうなれば、国民全体の購買意欲が停滞し、景気の上昇は見込めないだろう。今後も経済成長を続けるのであれば、やはり、産業構造の軸を知識集約産業やサービス産業に移行させる必要性があり、そのためには、有効に政府支出が行わなければならないだろう。
私は景気回復だけでは、必ずしも格差問題は解消されるとは思えない。企業はバブル崩壊後の長い不況のなかで、正社員に代えて安価で雇用を経営状況によって柔軟に調整できるアルバイトやパート、派遣などの非正社員を多く導入してきた。企業は、そのようなことを行っているうちに、景気が低迷していても人件費の抑制で、成長できる旨みを覚えてしまっている。そう簡単に非正社員を正社員に格上げして採用することは考えられない。やはり、今後、どのような雇用制度が望ましいか、雇用制度のあり方についても考察しなければならないだろう。
(*1)私は、安倍内閣が掲げる「再チャレンジ」政策には、全く期待していない。政府が、今まで「再チャレンジ」政策の目玉として検討していた、「公務員のフリーター枠採用」の導入を断念したのをみると、安倍内閣が本気でフリーターやニートの対策に取り組むとは思えない。ちなみに内閣府や厚労省の調査によれば、フリーターを正社員として採用する場合の「上限年齢」を20歳代までとしている企業は48.5%、第2新卒(卒業後おおむね3年以内)を採用しない企業は44%であったという。
(*2) 12月14日に内閣府が発表した7〜9月期における国内総生産(GDP)速報では、雇用者報酬は前年同期比で1.3%増と、6四半期連続で前年を上回ったという。しかし、内閣府は雇用者報酬の増加に対して、「伸びているのは雇用者数が増えているためで、1人あたりの賃金は伸びていない」と説明をしている。総務省が12月1日に発表した調査によれば、雇用者全体に占めている非正社員の割合は33.4%で、3分の1を超えているという。7〜9月期における非正社員の割合は、前年同期比で0.5%増であったという。
(*3)構造改革という概念には、様々な意味が含まれているといわれる。構造改革が規制緩和を意味する場合もあり、または財政構造改革を意味することもある。人によっては、構造改革をリストラであると認識したりもする。小泉政権は、構造改革を様々な場面で濫用していたため、一体何を指し、何を意味しているのか、定義がはっきりしておらず、不明確である。
(注1)『月刊 現代 2月号』(講談社 2006)「小泉・竹中「亡国コンビ」への退場勧告」
(注2)『週刊 エコノミスト 10月3日号』(毎日新聞社 2006)
(注3) 『世界 3月号』(岩波書店 2006)「「実感なき景気回復」を読み解く」
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| (2006.12.18[Mon]) |
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| 「格差社会に断固、徹底抗戦―俺はぶっ殺されるまで戦うぞ!!」 ■はじめに |
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前回、「相変わらず説得力に欠ける、大竹文雄氏の「格差は見せかけだけ」論」の最後で私は今後、格差社会をどのような方策で克服するか、それについて論述すると述べた。前回の「相変わらず説得力に欠ける、大竹文雄氏の「格差は見せかけだけ」論」までにおいて、私は大竹文雄氏をはじめ、新自由主義者たちがいう、「格差は見せかけだけ」とする見方に対して一貫して批判的な態度をとっていた。しかし、彼らが「格差は見せかけだけ」であると示す具体的な事例を庶民に提示できない限り、もはや格差の存在の有無を問う議論など不要とさえいえる。 現代の日本社会で格差は広がっているか否かというような議論において、多くの場合、識者の間では所得の格差を示す統計調査のいくつかを、どのように解釈するのかが議論のテーマとさえなっている。たとえば、大竹氏は、総務省の「全国消費実態調査」という統計調査をベースに、従来から所得の格差が大きい高齢者の拡大がジニ係数の伸びを上昇させているのであると論じ、「格差は見せかけだけ」だとしている。これについて、前回まで私は散々、批判を行っていたので今更、あえて論じる必要はないだろう。今回は、割愛させていただく。大竹氏や格差の拡大を素直に認めたがらない新自由主義者たちは、格差の拡大を表す様々な統計調査を別の角度や視点から考察を試みることで、格差の広がりは見せかけだけであると解釈する。しかし、彼らは「格差は見せかけだけ」であると論証するだけの具体的な事例を未だ庶民に提示していない。 具体的な事例とは、目に見えて肌で感じ、触れられる現象にほかならない。格差拡大を示す事例は推挙に暇がない。たとえば、非正社員の数約1650万人、生活保護世帯数約104万世帯、貯蓄ゼロ世帯23・8%、就学援助を受ける子どもの数約138万人など、庶民にとって身近な現象とさえなっているといわれる。「格差は見せかけだけ」と称する識者たちの多くは、「格差は見せかけだけ」であると裏付ける具体的な事例をまだ示せないでいる。格差の拡大を否定する論者たちは、しょせん、統計調査を別の視点から解釈することで「格差は見せかけだけ」であると論じているだけである。彼らが、「格差は見せかけだけ」であると論証できる具体的な事例を我々に提示できない以上、「格差は見せかけだけ」という論理は机上の空論にほかならない。そうした点を踏まえれば、もはや格差の存在の有無を問う議論など不毛である。 そういった意味で、私は今後、現代の日本社会で格差は広がっているか否かというような無駄な議論を避け、格差社会をどのような方策で克服するか、というような建設的な論を展開したいと思う。格差をめぐる論争は、近年、めまぐるしく変化するため、経済学や社会学に対して浅学で無知な私は、格差論争の推移や経過についていくだけで精一杯である。正直にいって、格差社会をどのような政策で解消するかといった議論を体系的に構築するのは、難しく、論が散逸的になるかもしれない。いつも私のコラムを読んでいただいている読者諸兄には、申し訳ないが、その点をどうかご理解していただきたい。格差をどういった方策で克服するか、という議論を行う前に私は、今まで批判できなかった学者やエコノミスト、評論家たちの言説について批判を加えるつもりである。たとえば、若年の低所得者の勤労意欲の欠如を指摘する声や機会の平等さえ達成すれば、格差は肯定されるべきだとする姿勢などで、それらについて積極的に批判を行いたい。そのような学者やエコノミスト、評論家たちの言説を批判することで、今後、私はどのような立場や見解で格差社会の解消について論じるのか、読者の皆様に示したいと思う。
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| (2006.11.21[Tue]) |
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| 相変わらず説得力に欠ける、大竹文雄氏の「格差は見せかけだけ」論 |
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ポスト小泉政権において、格差社会をどのように是正するかが、東アジア外交や財政及び税制改革などと並んで、重要な課題として挙がっているらしい。その好例というべきものは、ポスト小泉の第1人者である安倍晋三氏が率いる「再チャレンジ推進計画」であろう。「再チャレンジ推進計画」では、「脱・非正社員」が目標として掲げられ、できるだけ多くのフリーターや派遣・請負社員、パートなどのような不安定雇用で低収入の労働者の正社員化を図るという。小泉首相の「格差はいわれているほどではない」という言動や、猪口邦子少子化担当相のニート・フリーターに対する「待ち組」発言に比べると、異なった姿勢を感じさせる。どうやら、格差の拡大は自民党のなかでも、もはや見過ごすことができない深刻な社会問題であるようだ。自民党の議員は、よくメディアで構造改革を支持する経済学者やエコノミストたちと一緒になって、「格差は見せかけ上のものである」と述べていたものだが、あれはいったい何だったのであろうか、と思わずにいられない。安倍氏が「再チャレンジ推進計画」で積極的にリーダーシップを振るうように、もはや自民党内では格差社会は否定できない厳然たる事実として認識されているということなのか。 そのようななか、『諸君8月号』(文藝春秋 2006)をみると、大阪大学の大竹文雄氏が相変わらず現在、起こりつつある格差を「見せかけ上のもの」であると論じている。大竹氏は、06年2月10日の朝日新聞のインタビューや『論座4月号』(朝日新聞社 2006)と同様に、今回もまた、格差の増大を表すジニ係数の上昇は、高齢化の拡大で広がっているように見えているのだと主張する。ジニ係数は、1人が所得を独占した状態であれば1で、全員の所得が同じであれば0となる。1に近いほど格差が大きいということになる。大竹氏は、主に総務省の「全国消費実態調査」をベースに、従来から所得の格差が大きい高齢者の拡大がジニ係数の伸びを上昇させているのであると論じ、「格差は見せかけ上のもの」だとしている。
しかし、同じく総務省の「就業構造基本調書」では、パートやアルバイトなど非正規雇用者を含めた男性雇用者のジニ係数は97年度から02年にかけて、すべての年齢層で上昇しており、「全国消費実態調査」とは異なった様相を見せている。現在、最も深刻な格差問題だとされているのは、約97万人の年長フリーターの存在が示すような、若年層の間におけるジニ係数の拡大である。『エコノミスト 3月28日号』(毎日新聞社 2006)で太田清氏は、97年から02年にかけて若者の間でジニ係数が拡大していたと述べる。太田氏は若年男性雇用者の所得格差を20〜24歳、25〜29歳、30〜34歳と、いくつかの年齢階級に分けて、若年層におけるジニ係数の拡大を示している。太田氏によると、20〜24歳の若年男性雇用者のジニ係数は97年の0.191%から02年には0.221%まで上昇しおり、25〜29歳のジニ係数も97年の0.184%から02年において0.204%まで増加している。30〜34歳のジニ係数も97年の0.194%から02年の0.216%まで上昇している。いずれの年齢階級においてもジニ係数は上昇していたのである。 また、太田氏は、総務省の「労働力調査」から02年以降の若年労働者のジニ係数も調べており、25〜34歳の男性の(自営業を含む)の収入のジニ係数をみると、02年の0.243%から03年には0.247%に上昇した後、04年の0.247%、05年の0.249%とほぼ横ばいで推移しているという。太田氏は、02年以降の景気回復で、失業率の低下とともに、企業の積極的な新卒採用のおかげで若年層ではフリーターの増加が鈍化し、若年雇用者層におけるジニ係数の上昇に歯止めがかかったはずであるが、未だに若年雇用者間の所得格差は縮小していないと指摘する。つまり、若年雇用者の多くはフリーターや派遣・契約社員などのような非正社員から脱却できないでいるのである。おそらく、彼らの多くは97年頃の就職氷河期に学校を卒業した若者たちであろう。
大竹氏は、若年者間におけるジニ係数の拡大を認めつつも、景気回復による企業の新規学卒者採用の増加を挙げて、現在進行している景気回復で若年層の貧困が克服されるだろうというような見解を述べている。しかし、実際、太田氏が『エコノミスト 3月28日号』で指摘したように、02年から04年までの間、景気は回復していたのにもかかわらず、若年雇用者間のジニ係数は依然、縮小していないのである。なぜ、若年層において、ジニ係数が減少しないのか、大竹氏には、ぜひ説明していただきたいものだ。バブル崩壊後に訪れた長い不況のなかで、企業は正社員に代えて安価で雇用を経営状況によって柔軟に調整できるアルバイトやパート、派遣などの非正社員を多く導入してきた。おそらく、そこで人件費を大幅に抑制できる旨みを覚えたのが、主な要因ではないだろうか。
山家悠紀夫氏によれば景気が回復の傾向に向かっているといわれた02年から04年までの間、雇用者報酬は減少しており、02年では7兆円が減少、03年には5兆円減、04年には1兆円減少しているという。その一方、法人企業の所得は、02年から04年までの間、3年連続で増加しているという。(注1)また、企業が付加価値をどの程度賃金に回したかを見る労働分配率も02年から3年続けて低下しており、04年度は70.7%まで減少した。それに対して、企業の体力を示す自己資本比率は32.2%(05年10〜12月期)で、約半世紀ぶりの高水準であるとさえいわれる。つまり、リストラによる正社員の減少や、それに伴って行われた正社員から非正社員への置き換えなどが、企業の収益の回復に繋がっているのである。それが今回の景気回復を底上げしているのであろう。そのような状況のなか、はたして、景気回復で若年雇用者の雇用問題は解消するのだろうか。甚だ疑問に思わざる得ない。
ちなみにOECDが30ヵ国を対象に行った調査によれば、04年度の日本における社会保険料の事業主負担の割合は11.1%で、フランスの28.2%やイタリアの24.9%、ドイツの17.3%と比べて低く、メンバー30ヵ国のなかで11番目に事業主の社会保険料の負担は低いという。
何よりも、若年のフリーターや派遣社員などが頑張って就職活動しても、なかなか正社員に就けない最大の原因は、賃金が年齢を基準に決定されているからであろう。『内側から見た富士通「成果主義の崩壊」』の著者で知られる城繁幸氏は、『中央公論8月号』(中央公論新社 2006)で、どんなに労働力が不足していても大半の企業は、フリーターや派遣社員などの非正社員として生活してきた若者を採用対象としていないのだと述べている。城氏によれば、現在、多くの企業で成果主義が採用されているとはいえ、未だに賃金の水準は年齢をもとに決定されているのであるという。となれば、27歳のフリーターの給料は必然的に大卒新人と比べて5年分高くなってしまう。そうなると、企業はどうしてもコストが比較的安価な新卒を選ばざる得ない。どうやら、若年雇用者の間における格差は、景気回復で解決できるほど単純なものではないようだ。
現在、景気回復によって新規学卒者の就職状況が好転しているといわれている。しかし、一方で、それについて『SPA! 5月23日号』(扶桑社 2006)で金子勝氏がいうような、07年に一斉退職する団塊世代の代替として大企業が積極的に新規学卒者を採用しているだけという見方もある。大和総研主任研究員の鈴木準氏は、『エコノミスト 3月28日号』で、企業の新卒採用の方針は必ずしも長期的な展望の下で決められているわけではないという。むしろ、鈴木氏は短期的な景気循環で新規学卒者の就職率は大きく変わるとさえ述べている。鈴木氏の調査によれば、新卒者の就職率は企業業績と連動しており、企業は足元の業績動向を見極めながら直近の新卒採用を調整しているという。90年代には、企業の業績が低迷したのと歩調を合わせて就職率が大幅に悪化している。だとすれば、新卒者の就職は、必然的に就職活動を始めた時の景気の良し悪しで左右されてしまうということになる。つまり、新卒者の就職は、その時の「運」次第ということである。 現在の景気回復は、輸出の増加によるところが大きく、日本の輸出総額は、01年度は49兆円、02年度は52兆円、03年度は55兆円、04年度は61兆円であり、現在好調な産業は自動車や造船、鉄鋼など輸出産業が中心である。特に鉄鋼大手4社、新日本製鉄・JFEホールディングス・住友金属工業・神戸製鋼所は中国の急激な経済成長の恩恵により、06年3月期連結決算において、経常利益は過去最高であったという。
その一方で、輸出の増加率と国内需要の増加率を比べると、大きな差がみられる。山家悠紀夫氏は、『世界 3月号』(岩波書店 2006)で02年1〜3月期と05年7〜9月期の輸出の増加と国内需要の増加を比較し、その差を検証している。それによると、輸出は42%の増加であるのに対し、国内需要の増加は6.4%であるという。つまり、現在進行している景気回復は輸出が牽引しているといえる。景気を引っ張っているのが輸出であれば、景気は常に海外経済に左右されるところが大きいだろう。日本の輸出は主にアメリカと中国に集中し、日本の対アジア輸出全体の5%のうち、2割は中国向けである。日本の輸出企業は中国の過剰投資バブルとアメリカの住宅バブルの恩恵に与っているが、5月に行われたFRB(米国連邦準備制度理事会)の利上げによって住宅バブルは頭打ちとなり、アメリカ国内の需要は低下している。今後、日本における景気の展望は決して明るくないだろう。実際、05年10〜12月期をピークに輸出は下降しており、それに連動して実質GDPも減少している。景気回復は外需依存のまま進行を続けるのであれば、新規学卒者の雇用における今後の展望も決して楽観視できないだろう。大竹氏が、本気で今回の景気回復で若年雇用者の雇用問題が解消すると思っているのであれば、能天気というほかない。 大竹氏は、格差が広がっている高齢者の中には所得が少なくても資産を保有している人が多く、親から豊かな資産を受け継いでいる低所得の若者は多いと述べる。はたして、そうといえるのだろうか。厚労省が04年7月に労働者を正社員と非正社員に分けて就業実態の統計をとった「平成15年 就業形態の多様化に関する総合実態調査結果」から非正社員の年代別の比率をみると、40代が24.3%で最も多く、次いで20代の23.2%、50代が20.4%である。どうやら、どの年代においても、全体的に非正社員化の割合が高まっているようだ。非正社員の比率がどの年代でも増加しているのであれば、親子揃って非正社員をしているケースも少なくないはず。はたして、親子揃って低所得に甘んじなければならい世帯では、親が子どもに充分な資産を遺せるのだろうか。疑問ばかりが募る。 太田清氏は、『エコノミスト 4月25日号』(毎日新聞社 2006)で、国民の生活や消費の基礎的な単位である世帯所得について、「国民生活基礎調査」や「就業構造基本調査」など、いくつかの統計調査から出たジニ係数を図に示し、言及している。そのなかで、「住宅・土地統計調査」のジニ係数は、「就業構造基本調査」や「全国消費実態調査」、「家計調査」のジニ係数とともに確実に上昇している。「住宅・土地統計調査」では、主に住宅及び土地の保有状況が調べられている。「住宅・土地統計調査」におけるジニ係数が拡大しているということは、家を持っていない世帯が多く存在していることが大いに考えられるだろう。大竹氏は、高齢者の中には所得が少なくても資産を保有している人が多く、親から豊かな資産を受け継いでいる低所得の若者は多いというが、「住宅・土地統計調査」の結果をみると、どうも首をかしげてしまう。 「規制緩和が格差を拡大させた」という批判に対して、大竹氏は格差社会が規制改革でもたらされたという批判は、もともと規制で守られた人たちが既得権を失ったということを意味している場合もあると述べている。大竹氏によれば、規制緩和による新規参入で所得が低下したのは、今まで規制に守られた人たちであるという。また、大竹氏は規制緩和で所得が減少した既得権者たちは、規制が今まで敷かれていたことで排除されていた人たちの存在を蔑ろにして、規制の下で今まで守られていた仲間内だけで格差拡大を議論しているのだとも述べている。 大竹氏のいうように、規制が設けられていたことで結果的に、ある特定の一部の業者が新規参入を排除して利権を独占していたということは否定できないかもしれない。しかし、規制は、必ずしも既存の業者の利権保持の役割としてのみ果していたとは、いい切れない。市場で競争を余儀なくされるのは、強大な資本の大企業ばかりではない。大企業と比べて資本規模が劣る中小・零細企業も市場間の競争に参加させられ、大企業と競わなければならない。そうしたなかで、中小・零細企業が資本規模に優る大企業と必ずしも対等に競争できるとは限らない。ましてや、規制が取り払われた自由競争では中小・零細企業は大企業に対して圧倒的に不利である。規制とは、弱肉強食の市場において中小・零細企業が大企業と平等に競争する役目を果していたのではないか。 規制緩和による自由競争型の経済は、極端な例えでいうと、無差別級と化したボクシングである。ボクシングにおいて体重別による階級を撤廃したとすれば、生まれつき体格に恵まれた選手が圧倒的に有利になるのは目に見えている。そこには公平さが全くないのではないか。経済でも同じことがいえる。弱肉強食の市場における競争では、中小・零細企業は大企業と対等に競争するのは、大変難しい。規制が敷かれることで、中小・零細企業は激しい市場間の競争において大企業と平等に競争できるようになる。規制は、必ずしも大竹氏がいうような既得権を持つ者たちの利権保持にのみ役割を演じていたわけではない。弱肉強食の市場で中小・零細企業が大企業と平等に競争する役目を規制は担っていたともみるべきである。規制緩和による格差拡大も、規制で守られていた既得権者の所得の低下のみを要素として考えるのではなく、規制が取り払われた自由競争のなかで敗北し、「負け組」に陥った多くの者が、少数の「勝ち組」との間に格差を広げているともみるべきではないのか。
実際、大規模小売店舗法の規制緩和で、大型スーパーは、次々と中心市街地から郊外へ店舗を移動させた。それによって中心市街地にある商店街への客足が遠のき、現在、商店街は衰退の憂き目に遭っている。大規模小売店舗法は、90年の日米構造協議以降、米国の玩具チェーン「トイザラス」などの日本市場進出を進めたい米国の要求を受けて、次々と緩和され、00年に廃止された。大規模小売店舗法の規制緩和で、大型スーパーの郊外への出店ラッシュが起こり、その結果、ショッピングの郊外への流出に拍車がかかった。全国の人口20万〜30万人の都市では、中心市街地の販売額シェアは85年には47%だったが、02年には33%まで落ち込んだという。
規制緩和による格差拡大は、大竹氏のいうように規制で守られていた既存の業者の所得の低下が一つの要素であると考えられるかもしれない。しかし、規制が撤廃された自由競争は市場を弱肉強食の場と化させ、少数の「勝ち組」と大多数の「負け組」を生んでいる。先ほどの大規模小売店舗法の規制緩和の例では、強大な資本の大型スーパーが中心市街地から郊外へ店舗を移動させたことで、地元商店街の客足が遠のき、衰退している。規制緩和による格差拡大を考察するにあたって、市場競争そのものが格差を広げる根本であると充分に認識し、少数の「勝ち組」と大多数の「負け組」を生む市場経済の内在性について考慮するべきだろう。
今回はどういうわけか、06年2月10日の朝日新聞のインタビューや『論座4月号』と違い、規制緩和が格差を広げたという話題では、大竹氏はタクシー業界の規制緩和や派遣労働者の解禁についての言及を避けている。大竹氏は、06年2月10日の朝日新聞のインタビューや『論座4月号』で、タクシー業界の規制緩和や派遣労働者の解禁について肯定的な見解を示していたために、『世界5月号』(岩波書店 2006)で森永卓郎氏から手痛い批判を浴びせられている。今回は、それに懲りて大竹氏は、タクシー業界の規制緩和や派遣労働者の解禁に対する言及を控えているのだろうか。
小泉政権の構造改革の下で行われた公共事業の削減が、地方の間に格差を広げたという批判について、大竹氏は現在、格差問題として浮上している地方間における格差は、今まで公共事業の恩恵を受けていた、ある特定の利害関係者の既得権が損なわれたのではないかというようなことを述べている。地方における公共事業について、族議員の「地元への利益誘導」という批判があり、実際、不必要な箱物施設の建設が計画されるように、非効率な部分が多く目に付く。そのような点からみると、大竹氏のいうように、地方の間に広がった格差は、今まで公共事業の恩恵を受けていた、ある特定の利害関係者の既得権益の喪失ではないかという見方はできなくもない。しかし、小泉政権が行った公共事業の削減により、北海道は都道府県のなかでも著しく厳しい状況に置かれている。北海道の平均失業率は5.3%であるといわれ、全国の平均的失業率の4.1%を上回っている。また、有効求人倍率(パート及び非正社員も含まれているという指摘がある)は、小泉政権の4年間で東京は0.68倍から1.58倍に改善しているが、北海道は0.47倍から0.66倍へと改善幅は、なお小さい。公共事業を族議員の「地元への利益誘導」としてみるのであれば、大竹氏が述べるとおり、公共事業の削減で生じた地方格差は、今まで公共事業の恩恵を受けていた、ある特定の利害関係者の既得権が失われたと捉えてもいいかもしれない。しかし、実際、先の北海道の例をみるとおり、地方の人々の仕事は確実に減っている。大竹氏がいうように、公共事業の削減で発生した地方格差は、一概にもともと公共事業の恩恵を受けていた、ある特定の利害関係者の既得権の喪失として捉えることはできないのではないか。地方経済が公共事業に依存していたのであれば、小泉政権は公共事業の削減を推進するよりも、地方が公共事業に代わる経済基盤を創出できるように、充分な猶予や支援を行うべきではなかったか。
地方格差が話題になると、多くの新自由主義的な政治家や評論家などは、地方は行政依存を当然とするたかり根性を持っていると述べ、彼らは地方の住人に対して「甘えるな」と攻撃的な口調で強く批判する。はたして、地方の人々は新自由主義者たちがいうような、行政に経済依存しているという、甘えた意識を持っているのだろうか。北海道大学の山口二郎氏と同じく北海道大学の宮本太郎氏は、構造改革や平等の問題に関して、地域的な温度差がどの程度存在するかを探るために、東京都(サンプル数約1000人)と北海道(サンプル数約500人)において世論調査した。(注2)その調査において、「大都市圏が地方を支援することの是非」を尋ねたところによれば、大都市圏からの財源移転に強く依存している北海道の町村部において財源移転の現状維持を選んだ割合が39.2%と東京や北海道の都市部よりはるかに低かったという。むしろ、北海道の町村部では地方の自助努力を選んだ割合が28.6%と、東京や北海道の都市部に比べてはるかに高かったという。農村部の人々といえば、世間では広く再分配に甘えているというような印象が流布されているが、むしろ農村部の人々のほうが、自助努力が必要であるという気概を強く持っていると言えるのではないか。小泉政権は、財政再建のために安直に公共事業を削減して地域格差を広げるよりも、自助努力が必要であるという強い気概を持つ地方の多くの住人のために、地方が公共事業に代わる経済基盤を創出して自立できるように、充分な猶予や支援を行うべきではなかったか。
また、大竹氏は地方格差について、このような見解を誌上で述べている。「個々の住民にとってみれば、その地方に住み続けなければならない、というわけではない。高度成長期がそうであったように、豊かさを目指して転居することはだれにでも可能だ」。解釈によっては、「地方格差を容認している」と受け取られかねない言動である。地方では現在、小泉政権の公共事業の削減によって地元での求人が大幅に減少し、若者は仕事を求めて都市部へ続々と移動し、地方では高齢者ばかりが取り残されているという。地方では、高齢者が4分の1を超えるといわれている。はたして、大竹氏がいうほど簡単に、地方に住む高齢者たちが住み慣れた土地から離れることができるのだろうか。どうも、大竹氏は我々庶民とは、次元の違う世界に住んでいるのではないかと思わずにいられない。
今回、私が批判を試みた『諸君8月号』における大竹氏の「格差は見せかけだけ」という見解も、06年2月10日の朝日新聞のインタビューや『論座4月号』で展開された論述と同じく、説得力に欠けるものであった。大竹氏の「格差は見せかけだけ」であるという論の展開には、以上で私が批判を繰り返していたように、数多くの欺瞞が内在している。大竹氏の、高齢化の拡大で格差はあたかも広がっているのだという主張や、現在進行している若年層におけるジニ係数の増大は、景気回復で克服されるだろうというような楽観的な見解には、どうも首をかしげざる得ないだろう。そして何よりも私が、「格差は見せかけだけ」という大竹氏の論に説得力を感じないのは、大竹氏にかぎらず、「格差は見せかけだけ」と述べる識者たちの多くは、「格差は見せかけだけ」であることを裏付ける具体的な事例を未だ提示していないことにある。具体的な事例を提示して説明ができないのであれば、「格差は見せかけだけ」であるという論は、机上で練り上げられた空論であるとみるほかないだろう。格差拡大を示す具体的な事例は、非正社員の数約1650万人、生活保護世帯数約104万世帯、貯蓄ゼロ世帯23・8%、就学援助を受ける子どもの数約138万人など、山ほどあり、推挙に暇がない。はたして、「格差は見せかけだけ」であると裏付ける具体的な事例は、どれほど存在するのだろうか。
こうしてみると、格差は確実に広がっているとしかいいようがない。もはや、格差が広がっているか否かを問う論争は不毛である。議論の焦点はこれから、どのような方策で格差社会を是正するかでなければならないだろう。今後、私は専門化ではないが、格差社会を克服するために、どのような政策を行うべきか、素人なりに精一杯勉強し、主に社会保障や雇用制度について考察を試みようと思う。『諸君8月号』では大竹氏は、教育格差についても言及しており、できれば、今回、それについての批判を加えたかったが、個人的な事情で充分な時間が確保できなかったため、別の機会に論じさせていただく。
(注1)『世界 3月号』(岩波書店 2006)「「実感なき景気回復」を読み解く」 (注2)『論座 6月号』(朝日新聞社 2006)「市民は「格差社会」をどう考えているか、政府に何を望んでいるか」
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| (2006.9.12[Tue]) |
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| 格差を拡大させた責任 |
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非正規雇用社員の数約1650万人、生活保護世帯数約104万世帯、貯蓄ゼロ世帯23・8%、就学援助を受ける子どもの数約138万人、年間自殺者約3万人超など、近年、格差拡大を示す数値の増大には推挙に暇がない。これらに対して、自民党の議員や構造改革を支持する新自由主義的な経済学者、エコノミストたちは、必ずと言ってもいいほど、まるで馬鹿の一つ覚えのように、このように否定して述べる。「これらの項目における数値は、小泉政権以前に増加傾向であり、必ずしも構造改革が格差を拡大させたわけではない」。 しかし、小泉政権発足後も非正規雇用社員の数をはじめ、生活保護世帯数や貯蓄ゼロ世帯の割合など、格差拡大を示す項目の数値は上昇傾向である。非正規雇用社員の比率は、「就業形態の多様化に関する総合実態調査」によれば小泉内閣が発足する2年前の99年度では、非正規雇用者の比率は約28%であったのに対し、小泉政権が発足してから3年目の03年度において非正規雇用者の比率は、約38%まで増加している。生活保護世帯も01年度では約78万世帯であったが、05年度では約104万世帯に増加している。貯蓄ゼロ世帯は02年度の16.3%から05年度では23%まで急増。就学援助を受ける子どもの数は2000年度では、約98万人であったが、05年度において138万人まで増大している。小泉政権の発足後、格差は確実に拡大しているのである。 格差拡大の代表例として度々取り沙汰されるタクシー業界の規制緩和は、02年に施行されている。言うまでもなく、タクシーの業者数や車両台数の規制が緩められたのは小泉政権の発足後である。タクシー業界では規制緩和の結果、新規参入する業者数の増大により、競争が激化し、運転手は低賃金や長時間労働を強いられるようになっている。厚労省の調査によれば、売上げに比例する「歩合給」が多いドライバーの年収は、04年度で全産業平均の6割に満たない308万円で、最低賃金を下回るなど改善が必要な事業所は367ヶ所もあったという。また、04年度の1台あたりの1日の平均売上は99年度より約3500円少ない2万8985円に減少したといわれている。なお、05年のタクシーの交通事故は90年代半ばの約1.5倍だという。自民党の議員や新自由主義を信奉する経済学者、エコノミストたちは、異口同音に「小泉政権は格差拡大の犯人ではない」と見苦しいまでに否定するが、タクシー業界における規制緩和は明らかに小泉政権下で行われた政策である。規制緩和の施行によってタクシードライバーたちの平均年収を低下させた責任は重いだろう。 タクシー業界の規制緩和とともに、小泉政権下における格差拡大を表す事例として挙げられるのは地方格差である。地方格差は、主に小泉政権の構造改革の下で行われた公共事業の削減が要因だといわれる。平成17年度(05)の一般会計予算の公共事業関係費は7兆5310億円で、前年度当初予算から3.6%減である。小泉政権が行った公共事業の削減により、著しく厳しい状況に置かれている都道府県は北海道で、北海道の平均失業率は5.3%であるといわれ、全国の平均的失業率の4.1%を上回る。有効求人倍率(パート及び非正規雇用社員も含まれているという指摘がある)は、小泉政権の4年間で東京は0.68倍から1.58倍に改善したが、北海道は0.47倍から0.66倍へと改善幅は、なお小さい。ちなみに、05年9月に行われた総選挙では、自民党は北海道における12の小選挙区のうち、獲得できたのは武部勤幹事長以下たったの4議席だったという。東京都では自民党が25の小選挙区のうち、23議席を獲得したのに比べると、えらい違いである。どうやら、北海道では小泉政権の構造改革に対する不信感が高まっているようだ。 自民党の議員や新自由主義を信奉する経済学者、エコノミストたちは、所得格差を如実に示す人材派遣業の規制緩和について問われると決まって、このように述べる。「人材派遣業の解禁は小泉政権が発足される以前から施行されていたのであって、小泉政権が直接的に人材派遣業の規制を緩和したのではない」。確かに秘書・通訳など専門16業種に限られていた人材派遣業は、96年に対象業種が26業種に拡大され、99年度では、派遣業種は製造業など一部を除いて原則自由化となった。
「人材派遣業の解禁は小泉政権が発足される以前から施行されていたのであって、小泉政権が直接的に人材派遣業の規制を緩和したのではない」というような、自民党の議員や構造改革を支持する新自由主義的な経済学者、エコノミストたちの言い分には、一理あるかもしれない。しかし、小泉政権は04年に製造業への派遣を解禁するばかりでなく、契約社員の契約期間の上限を1年から3年に延ばして人材派遣業の規制緩和を加速させている。明らかに小泉政権は、人材派遣業の規制緩和を推進し、正社員と非正規雇用社員との所得格差を助長しているのである。ちなみに企業が付加価値をどの程度賃金に回したかを見る労働分配率は、02年から3年続けて低下しており、04年度は70.7%だったという。その一方で、企業の体力を示す自己資本比率は32.2%(05年10〜12月期)で、約半世紀ぶりの高水準であるといわれる。おそらく、リストラによる正社員の減少や、それに伴って行われた正社員から非正規雇用社員への置き換えなどが、企業の収益の回復に繋がって、自己資本比率を底上げしたのではないかと思われる。それとともに労働分配率は低下したのではないか。 バブル崩壊後、「失われた十年」といわれているが、小渕政権の時代では公共投資の増額や減税などの景気浮揚の政策が功を奏し、税収は50兆円台まで回復していた。しかし、小泉政権の下で税収は10兆円程度減少した。しかも、小泉政権の発足後、最初の2年間だけで税収は6兆円を越える減少だったという。不況でデフレが進行しているなか、小泉政権が緊縮財政を行ったことで、景気が悪化し、所得税収及び法人税収、消費税収が大幅に減少してしまったのだ。国民経済にとって、このことは痛手であったにちがいない。デフレスパイラルの最中に行われた、小泉政権の緊縮財政政策が格差の拡大を招いたことは大いに考えられる。
竹中平蔵氏が主導した金融再生プログラムもまた、格差を拡大させた大きな要因であると考えられる。金融再生プラグラムによって、大手主要行が不良債権処理を進めた結果、02年度において1年間で10万から15万人が失職したという。しかも、そのうち転職できない失業者は5万〜7万人いたといわれる。不良債権処理の影響で失職した者たちは、森永卓郎氏の指摘によると、主に人材派遣業へ流れ、非正規雇用社員に転化しているという。(注1)リストラによって失職した中高年は再就職が困難で、失業保険で生活できるのは、わずか1年足らずである。そのような厳しい状況でも彼らが家族を養うとすれば、非正規雇用社員しか仕事の当てがないだろう。はじめの辺りで述べたように、非正規雇用社員の比率は、「就業形態の多様化に関する総合実態調査」によると、99年度における非正規雇用者の比率は約28%であったのに対して、小泉政権の発足後、3年目の03年度では非正規雇用者の比率は約38%まで増加している。よく一般に非正規雇用社員の増加は、不況が原因だといわれるが、竹中氏が主導した金融再生プログラムも格差拡大に大きく拍車をかけたにちがいない。 よく構造改革を支持する経済学者やエコノミストたちは、金融再生プログラムによって不良債権問題が解消して、それが景気の回復に繋がったというような評価を下す。しかし、現在の景気回復はリストラや正社員から非正規雇用社員への置き換え、輸出によるところが大きい。先ほど述べたように、企業が付加価値をどの程度賃金に回したかを見る労働分配率は、02年から3年続けて低下し、04年度は70.7%である。その一方で、企業の体力を示す自己資本比率は32.2%(05年10〜12月期)で、約半世紀ぶりの高水準であるとさえいわれる。リストラによる正社員の減少や、それに伴って行われた正社員から非正規雇用社員への置き換えなどが、企業の収益の回復に繋がって、自己資本比率を底上げしたのではないか。
また、現在好調な産業は自動車や造船、鉄鋼など輸出産業が中心で、特に鉄鋼大手4社、新日本製鉄・JFEホールディングス・住友金属工業・神戸製鋼所は中国の急激な経済成長の恩恵によって、06年3月期連結決算における経常利益は過去最高であったという。日本の輸出総額は、01年度は49兆円、02年度は52兆円、03年度は55兆円、04年度は61兆円であり、輸出は増大傾向にある。現在の景気回復は明らかに輸出によるところが大きいといえる。金融再生プログラムによる不良債権問題の解消が、景気回復に繋がったとは考えにくい。
評論家の宮崎哲弥氏(注2)や東京大学の佐藤俊樹氏らは、格差拡大の要因は小泉政権の構造改革ではないと主張する。佐藤氏は、『エコノミスト 4月25日号』(毎日新聞社 2006)で格差問題の背景には、「ザ・格差」という幻想があると述べ、その「ザ・格差」を生み出すのが「ザ・原因」であるという。佐藤氏によれば、「小泉政権の構造改革が格差を拡大させた」というような論理が「ザ・原因」で、それが「ザ・格差」という得体の知れない幻想を作り出しているのだという。しかし、以上で私が述べたように、小泉政権の構造改革が格差を広げたのは明らかである。もはや、自民党の議員や構造改革を支持する経済学者、エコノミストたちがいうような、「小泉政権の構造改革が格差を広げたのではない」という論法は欺瞞でしかない。たとえ、小泉政権が格差問題の真犯人でないとしても、格差を拡大させた責任は絶対に免れないだろう。格差の拡大に力を尽くした小泉首相は、無責任ながら9月に退陣してしまう。自民党総裁選では、格差問題は大きな争点になっている。安部晋三官房長官が率いる「再チャレンジ推進会議」がその好例であろう。今後、小泉政権が遺した負の遺産である格差社会をポスト小泉は、どのように克服するのだろうか。
(注1) 『SAPIO11月23日号 世界の「上流社会」「下流社会」』(小学館 2005)「貧困層が10年間で倍増!「年収300万円時代どころか「120万円時代」がやってくる」
(注2)『論座 6月号』(朝日新聞社 2006)「宮崎哲弥&川端幹人の週間誌時評 中吊り倶楽部 第8談エリート野郎VS庶民の味方?」
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| (2006.7.25[Tue]) |
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